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生ぐさボウズ
20210331
事実を、淡々と、書く。
僕がやってる、およそ1000字程度の文章ってのはそういうことだなと、急にそんな感慨がやってくる。
読んでくださってる人は、何を小難しいことを日々書いているいるのだろうとか、思ってくれる方もいるのかもしれない。
ただ、自分の中での意識上の操作は、事実を書く以外にやっていない。やれていない。
小難しく見えるのであれば、それは僕の事実の捌き方、その所作が不恰好っていうことだろう。
自分にとっての事実を書くって以外の試みがほとんどないもんだから、作品ってモノまでの距離は遠い。
それは自覚している。
今言葉を並べているこの文章も、書くってことについての、僕にとっての事実を刻々と記録しているのみ。
書けないなあって時は、この身に降ってくる事実をハントできていない。
何かに気をとられ、あるいは身をとられ、目の前の事象への丁寧さが欠けていると言ってもいい。
つい先日、ここ一年ほど書いてきた、そして今も書いている文章を、総括する名前をつけた。
横書き「生ぐさボウズ」。
生臭坊主(意味:俗気のある僧)って言葉をいじって名付けた。
ナマなのか。セイなのか。
くさいのか。ぐさっとくるのか。
坊主なのか。ボウズ(1匹も釣れない、狙った魚は釣れない)なのか。
全体として、何かに収束することから距離を取るような、だけど何かボヤっとした輪郭はあるような名前にしたかくて名付けた。
毎度のことであるはけれど、書いてる言葉のならびにメッセージは、ない。
強いて言えば、〇〇に興味をもった。そのことについて、想い巡らせてみた。そして結局のところ何もわからない。ってことが書いてあるんだと思う。
それを読んで、自分にとってはどうだろう?と、一石が体内に放られて、波紋が広がれば十分。それ以上求めることはない。
僕にとっての事実を事実として明け渡した結果、読んで下さった人との間にフィクションがうまれ、その方の事実に還っていく。そういうバトン。
そんな虚構と事実の行き来に、自分の書いた言葉が一役買えたらうれしいし、少なくとも自分にとってそういう言葉を書き続けたい。