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自覚的に死を反転する(荒川修作)
20200701
僕はどうして、人から“恥“と思われる領域に足をふみいれるのを極端におそれていたのか。
端的には“死んでしまう”と思っていたからだと思う。大げさで言ってるつもりはなく。
ここでの“恥”は大多数の人たちに“失敗”と思われることとほぼイコール。
“恥”や“失敗”が、“死”への道筋となるのはなぜか。
この個人的な問題を引きうけて行く先に見えている先人は、荒川修作だなあと思う。
荒川の問題意識だったのかなと思うことに、臨場感をもてそう。
たぶん、僕の中では、2つの理由が根っこにある(以降愚痴ではないです、自分の中での再現性のために書き出します。今は多大な恩恵を感じています)。
1つは、親との関係性からうまれたもの。
もう1つは、その延長線上にある。社会の中でサバイブすることへの漠然とした不安。
1つ目。親。
僕の両親、特に母親は、世間体をとことん気にする人だった。“普通”の中に居座りつづけないと気がすまず、そうでないとヒステリックに怒りをまきちらしていた。
その怒りであり期待は、身内にのみ発せられた。
僕の中では、母親にとっての“普通”からの逸脱(=“失敗”)によって、キョーレツな怒りを浴びた記憶がいくつかある。
直接的な暴力をうけてはいないが、幼いながらに、母親の基準からはなれると、育ててもらえなくなると意識したのだと思う。
育ててもらえなくなる、イコール、“死ぬ”。
歳を重ねるにつれて、母親の基準から距離をとったような気はするが、そのかわりに別の基準を求めるようになる。
すがるための“教え”。
誰かの“教え”の中にいれば、“恥”も“失敗”からも無縁。
ひるがえって、“教え”の中にいない自分に価値はないという思い込み。
ようは生きることの責任から距離をとろうとしていたってことだ思う。
2つ目。これは生きる力とでも言えるし、ようは金を稼ぐこととも言える。
受験の連続、その戦争は正解を取りつづけることでしか勝ち抜けない。
それはジェットコースターに乗りこみ、そのスピードに振り落とされることなく、ふんばりつづけるみたいなこと。
正解しつづけることでしか、お金を稼ぐことはできない。そして、生きることはできない。そういう思い込み。
理由1と、その延長としての理由2。
こうして“死ぬ/死なない”ってことを考えていると、荒川修作がでてくる。
彼が、死を反転させようとしていたことに、臨場感をとても感じる。
彼の、アフォーダンスの連続で仕立てたような建築作品は、強制的なのかなと思う。
同意を要請しない、環境による強制的な変更。
それはある意味で荒川のやさしさかもしれないけど、本人が自覚して再現性を持てないという点からみれば逆に厳しい。
信仰、すがらざるをえなくなる。
荒川がやろうとしていた“死”の反転を、どうやって自覚・再現性のあるものとして引き継げるか。
今僕が取り組んでる、瞑想も、食も、言葉も、妻との仕事も、家庭のことも、
無自覚で強制的なものでなく、自覚的な“死”の反転としてありたいなあと思う。