義務教育
20210430
先日、娘が保育園の放課後の時間をあまり楽しくなさそうにすごしてるようにみえると、書いた。
そのことを書いた、当日だったか次の日、彼女はこれでもかと楽しそうに遊んでいた。
その様子をみて安心する。
そうだよね、いつも楽しくないなんてことはないよねと。
そう思いつつ、まあいつも決まって楽しいわけもないかとも思う。
というより、保育園が楽しい/楽しくない、保育園に行きたい/行きたくない、っていうのも違うのかもしれないと、ふと思う。
特定の場所に行きたい/行きたくないってのより、今日は家、明日は保育園って具合に、彼女にとっての、そのつどの願望がハッキリしてるってだけなのかもしれない。
彼女が自分で保育園に行きたいってなるときはたしかにある。最近だと新しい靴を買った翌日は、履いていくんだと意気揚々としていた。
一方で、行きたくないっていう振る舞いをするときもある。このところは鶏が家に来て、ずっと一緒に遊んでいたいみたい。
今のところの、彼女がすごす時間の多くを占めるのは家か保育園だから、その内での願望を彼女は主張する。
ただ、あくまで今はその2つが主なだけで、もう少しすれば、その願望もより多岐に、複雑に変わっていくのかもしれない。
そんな彼女の複雑さ、複数さに、よりそえるようにしたいなあと思うわけです。
今だと、彼女を保育園でみてもらわずに仕事をしていくのは、中々に難しい。
不可能ではないのだろうと思うのだけれど、身がもたない。
ただ、保育園に行きたくないってのを行ってもらっておいてアレだけど、行きたくない場所、居たくない場所に我慢して居るコトが当たり前になって欲しくもない。
この場所は心地いいなあ、この場所はあんまりだなあってコトを感知する力を失わず、養いつづけてほしい。居心地に限らず、心地よさを大切にしてほしい。
保育園だって、小学校だって、行きたいなら行けばいいし、行きたくないなら行かなきゃいい。
行かないって時に、教育の義務を課されているのは妻や僕だから、それをどう対応するかは僕たちの責任。
そのつどの娘の身体に応答できるようにありたい。
そのための、しなやかな環境として、みずからの身体を整える。みずからの健康と学びをつくっていく。
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