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泣く
20220117
先週、泣いたと書いた。
ありがたいことにというか、会う人会う人で、ちょこちょことその話題になる。心配というか、意外というか、そんな具合で、話がふくらむ。
僕は割と泣く。
何かしらの作品で泣くとかは、人生の中でまあなくて、大体自分ごとで泣いている。
小学校くらいまでは割と泣き虫な方だったと思うけど、中高と年齢を重ねるにつれて、全く泣かなくなった。
泣くことのタガがはずれたのは、妻と僕との結婚式の時だった。
地元での家族だけの式だった。朝の9時くらいの段階で泣いていた。
親族の皆皆が集合してきて、特に、脚の悪いおばあちゃんが現れたところで、ああ今日はもうダメだわと泣いていた。
この涙の理由が今はなんとなく言葉にできる。
それはうれしさと申し訳なさに挟まれ、引き裂かれることから生まれたモノだった。
自分みたいな奴のために人が集まって祝おうとしてくれてる。そのことへの申し訳なさ。そしてそれを上回るように、そのことへのうれしさ、ありがたみが溢れてくる。
身体の中で相反する力が矛盾として両立して、そのことに身体が耐えきれず涙となった。そんな風に思っている。
同じ類の涙は、娘の出産の時にもあった。
娘が生まれる2時間くらい前から、僕は泣いていた。
僕みたいな奴の子どもが生まれてくることへの申し訳なさと、その隣で助産師さんたち、なにより妻が懸命に頑張ってくれている。そのことへの感謝。
そうして、泣いていた。約2時間、まあ役立たずな夫をやって、父親になった。
こうやって言葉にすると、僕の涙は、自身の存在に対する七面倒な葛藤から生じているのだろう。
生きていることへのためらいと、生きていることへの歓びが、まぐわって、ある臨界点に達した時に涙となる。
今回の涙にも少なからずそんな要素があった。今までの涙も思い返した。
そして、僕はそんな涙のために、瞑想を仕事にしようとしたことを急に思い出した。
瞑想さえしておけばいいなんてことは全くもってないけれど、それでも瞑想が、生きること/存在することそのものに、肯定的に働きかけること、そのキッカケになることは間違いないだろうと思っている。
存在そのものをまるっと受け容れて、腹括って生きて、その先にやってくるものを迎え入れること。
関わりあえる人たちが、できるだけクリアに、その場の"死"と新たな"生"の涙を流せますように。