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親子
20210405
自分の中で抱えてる、向き合ってる問題群は、親からきてるなとしみじみ思う。
きてるというか、親との関係を通して我が身に燻っていたものというか。
うつ病だった父親。
うつ病になるまで働かなければいけなかった父親の身体。
うつ病で寝てた父親を許せず、怒鳴っていた母親。
隣にいる人がしんどいってことが受け容れられない身体。隣の人の身体よりも、社会的な都合を優先させようとした母親の身体。
そんな親の関係性の一因となっていたであろう子としての自分の身体。
父親/母親/子どもっていう三者の身体、そのあり方についてむきあうことが僕にとっての大きな関心なのだろう。
それらについて、妻や娘との日々の中で、試行錯誤している。
どう試行錯誤してるのかと言われると、うまくいえない。
アレコレと手を出してる日々の実践が、うまいこと焦点が定まって言葉にできるかっていうと、むずかしい。
ただ解決でも解明でもないってのはなんとなくわかる。
解決という名で外からの正解らしきを押しつけるのも、解明という名のもと勝手にわかった気になるのも、ちがう気がしている。
外から、強制的な力、暴力を加えることなく、内から、困難だったはずのモノが困難でなくなる。
そんな身体に興味がある。
わからないモノやわからないコトを、わからないままに寄り添い、認める。
僕の日々の実践、試行錯誤は、父親も母親も子どもの自分も、なかよしとかではなくて、まるっと愛せる身体ってのはどうあるのかってことを、探究してるって具合だろうか。