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ひとあれるぎい
20210701
「瞑想って何か唱えながらやるんですか?」と妻が鍼のお客様に尋ねられたらしい。
妻が鍼灸を、僕が瞑想をしてる建物は2階建ての一軒家で、1階を妻が、2階を僕が使っている。
それで鍼灸治療中に上の階から声らしきが聴こえてくるもんだから、お経的な何かでも唱えてるのかなと思われたようだった。
残念ながらその予想は外れていて、何かのワークをしながら、ラップをブツブツと口ずさんでいただけだった。
ただそんな言葉を投げかけてもらって、お経を唱えながら瞑想してるってのは、ある意味間違えていないかもなあとも思う。
縦書き「有茶」と題して、詩というか、ラップのリリックを書き留めている。
これは口ずさむとうれしくなる、すくなくとも僕の口には気持ちいい音の運びを意識して、言葉を編みあげたものだ。
その言葉群を歌うことと、お経を唱えることってのがどう違うのかがわからないなあと思った。
お経は仏教を基盤にもつ。はず。その歴史には、人間が生きていく上での必然性らしきが幾重にも積み重なっている。それはとても貴重で尊い。
ただ一方で、仏教が宗教であるという側面、信仰らしきが前提となるってことを念頭に置くとき、すでにあるお経を我ごととしてすんなりと受け容れることは難しいこともあるだろう。
そんなときは、自分で自分のお経をつくってしまえばいいのかもしれない。
それは常に仮設的で、暫定的。渦巻き、揺れ動く身体と環境。それらが渾然一体として現れる世界の一段面としてある。
これを書きながら、もしかしたら、僕はそんな感覚で、言葉を書き留めているのかもしれないと、ふと思った。
そして、どこかで聴き、見かける言葉も、そういう受け取り方をしてるなあとも。
言葉の意味の組み立てられ方よりも、そこに露わになっている質感というか、“生の”情報をキャッチしようとしてる気がする。
空気を読むと言えばそれまでだけど、言葉尻の、意味尻の空気とは違った空気を読んでいる。
そしてそれは途方もなく疲れる。嫌じゃないのだけど疲れる。妻と娘以外の人と向かい合ってると、大抵グッタリしてる。喉奥の重み。
我ながらなんとも小さな社会性を携えて生きてるもんだと、奇妙に感心する。
そんな姿をみて娘は「タカはヒトアレルギー!」とニコニコうれしそうに言い放つ。