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点在
20210513
このところ、数学の問題をよく解く。
YouTubeのオススメに、東京大学とか京都大学を目指すような受験生むけの問題の解説動画が何故だかでてきて、定期的にみるようになった。
これが楽しい。
まあ解くいっても、問題文を読んで5分程度考えるくらい。方針やら条件の整理をしてみて、解答をみる。
大学で数学系の授業があったとはいえ、実際に奮闘してたのは10年以上前のことだから、細部は覚えていない。解説をみて、ああそんな公式あったねえと懐かしがる。
こうやって書いていく中で、楽しいってことと同時に自分で心配にもなる。
これは昔できたこと、過去の栄光にすがるようなことと同じなのか、違うのか。
まあ多少は違うんじゃないかなとアタリをつけながらつづきを書いていく。
高校3年の、大学受験は、かなり屈折しながらの楽しさの中にいたような気がする。
大学受験にいたるまでの、小中高の勉強を楽しいと思えた覚えはない。
それまでの勉強ってやつは「やらないと死んでしまう」っていうような極めて歪な圧力の中にあった。
そんなことを当時意識はしていないけれど、今振り返ればそうだった。
進学した高校は、東大/京大にポンポン受かるようなところで、そこにいた生徒たちも歪んだ圧にそれぞれの方法で向き合っていたんだろうと、今では思う。
これは受験勉強とか学校の勉強自体がいいわるいではなくって、そうやって成績とか結果を得ていないと、今この場から居られなくなるっていう、親や友達、周囲との均衡、力学の問題としてある。
不良として非行に走るようなわかりやすさとは別の、ベールに包まれた非行がいたるところにあるだろう。
たぶん僕も無意識のうちに、そういった力とむきあっていた。
だから大学受験も、それまでの勉強と同じく、楽しかったわけではない。
志望校には落ちたし、成績の変動のキリキリした感じをまた経験したいなどとは思わない。
でもその中にも楽しさはあって、それが数学と国語だった。
それは暗記するとか、正解へ辿りつくみたいな、それまでのプレッシャーに任せて結果をとることとは少し違っていたんだと思う。
考えること/手を動かすことはおもしろいんだなってことを初めて実感する時間だった。
数学も国語も、暗記でゴリ押しとかじゃなくて、ひたすらに考え試行錯誤することで道が開けるって経験が度々あった。
受験の解答上のテクニックもいろいろとあったけれど、それよりなにより、掻き分けて行くことが楽しかったのかなと思ったりする。
こうして久々に数学の問題にふれて懐かしくなるのは、自分のこれまでの生の中で各地に点在してるはずの歓びに印をつけているのかもしれない。
不当に重くなったモノ、みずから重くしてしまったモノを削ぎ落として、身軽になっていく中で、これまでとは違ったモノがみえたりするのだろうか。