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風を食べて光を飲む
20210315
舞踏の動画をパラパラとみながら、昔、太極拳をやっていたことを、急に思い出した。
家の近所にあった教室に1年ほど通った。中々に楽しかった。一方で、ナニカ釈然としない感じもあった。
娘がうまれて夜に家を空けてまで通うって感じではなくなって辞めた。
太極拳の基本的な流れとしては、直立から、腰を落とした姿勢に移り、そのまま左右に型を実践していく。
これは、垂直方向の、重力ってモノと調和を取ることで、水平方向に自在に動ける体を手にする、そんなことを目指してるのかなと、朧げに思いながらやっていた。
ただ舞踏をみながら、太極拳はどうして、平然と立っているところからはじめられたのだろうかと、不思議になった。
寝てても座ってても立っていても、あらゆる姿勢で重力はやってくる。
別にいいわるいではなくって、体にやってきちゃう。
その受け容れ方、向き合い方ってのが甘いような、そんな身勝手な印象をもって、釈然としなかったのかもと今更ながら思う。
これも身勝手な感覚だけど、“重力”ってのは、リンゴが落ちた重力だけではないと思ってる。
全方向、全方位からやってくる、暴力としての、もしくは、権力としての“重力”がこの世には無数にあるのではないかと思っている。
その複雑な力が、身体にふりかかり、バランスを崩す。身動きが取れなくなる。
ありとあらゆる、“重力”を受け容れつつ、逃げて距離をとる。“重力”と新しくむきあう間合いをつくる。
それは新しい身体をつくっていくことなんだと思う。その試行錯誤。そんな試行錯誤を、なぜか観て、なぜか感動する。そんな不思議。
舞踏ってのはそういった類なのかなと、ボンヤリ思う。
宮沢賢治の、風を食べて光を飲むっていう身体。
今を生きる身に、風も光もやってきちゃう。
そんな賢治の身体をつくりあげるような体験として(これも勝手な妄想だけど)、舞踏ってのはありそうだなあと想って、ワクワクする。