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時間がかかる
20210525
このところ服をつくっている。
着古してしまった服をバラして、その展開図を紙にトレースしてるのが今の段階。これからネットでよさげな布を買って、紙の形に切り、縫い合わせようとしている。
僕は、高校から大学にかけてが一番服を買ってただろうし、服ってやつが好きだった。
この好きってやつが素直でない、屈折した具合な好きであったことが我ながらめんどくさいのだけど、今にして色々と削ぎ落として見てみれば、やっぱり好きだったのは間違いない。
この5年とか10年は、ほとんど服を買わなくなった。ほとんど高校、大学で買ったモノをそのまま着ていた。
幸運なことに、昔買ったモノが良質だったり、僕自身の好みが大きく変わってないこともあって、変わらず着てたいモノがザラにある。
たださすがによく着てる子たちの寿命が近い。
服を探したりしたいのだけど、コロナやらなんやらで手に取っての物色しづらかったりで、どうしたもんかなと、そこそこの期間思っていて、ふとつくろうと思った。
着古した服の中から、この形の素材違いがあったらいいなあとか、ここちょっと変えたいなあってのを見繕って、チマチマとバラしていく。それで紙にトレースして、寸法やら微調整していく。
これがなかなか楽しい。
そんな様子を見ていた妻から「タカなんで今まで服つくってなかったんだろうね」と言われて、自分でもそうねえと思い巡らす。
大学は服飾のサークルにいたし、就職先はアパレル業界だった。
服飾の団体ではインスタレーションやらファッションショーをやった(口がこそばゆい)。
勤めてた会社もメインは服づくりだった(僕個人はアパレルって意識を持ってないくらい変化球な会社だったから、妻にアパレルでしょと言われてハッとした)。
そんな環境と好みでありながら、一回もつくろうと思わなかった。
思わなかったのか、思えなかったのか、わからないけど、つくらなかった。
今にして思うつくらなかった理由は、つくることは時間がかかるからじゃないかなってことだ。
何の時間か。
人から評価されるまでの時間だ。
作業時間うんぬんってより、人から手っ取り早く評価されようとするその間隔。
ブランド物やら、よくできた物ってのは、自分が何か奮闘しなくても評価がついてる。
それを買って身につけてしまえば、その評価を身に纏えるわけで、手っ取り早い。それは服飾なんかだけではなく、本を読むといった知識でもそうかなと思う。
それに引き換えつくるってこと、自分でアクションを起こすってのは、評価を得るってことからすると物凄く遠回りになる。
誰がどういうリアクションをするかもわからない未踏の地を掻き分けて進むことになりかねない。
我が身がそんな大層なモノではないことは重々承知の上で、むしろだからこそ、できうる限りのみずからの生を、あるいは死を、“つくる”ことに費やしていたいと想う。
服をつくろうと思えたことだったり、最近勢いづいてる日曜大工は、そんな生き様の変貌の兆しであって欲しい。