カラクレナイ

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最近の記事

哲学の大きな問題点

x=x だったのを x=y と表現し、そこにfunctionが加わって f(x)=y になる。 そりゃあxが何かっていうのは一生わからないよね。 ここが哲学の大きな問題点だと思う。

    • 社会的な性と個人的な性的趣向性

      セックスした「結果」が妊娠だった時代っていうのはかなり長い期間あって、それが妊娠の「方法」がセックスに変わった。 その変化の要因は解剖学と生物学の醸成で、それぞれの国で時期的差異はあるにせよ、そのタイミングを見極めることって重要だと思っている。 解剖学と生物学による人体がもつシステムの組成なしには、妊娠の仕組みもわからないし、その仕組みを利用して妊娠・出産をコントロールすることなど出来ない。 そして、それらがなければ、妊娠すること・出産することの選択…という女性の「権利」は発

      • 外側の言語へ

        成長過程の早期における英語教育の促進よりも、日本語を母国語として扱う人間にとって重要なのは日本語を身に付けることだという立場は揺るがない。 では、「日本語教育に力を入れている、大切にしている学校は?」と聞かれるとそれはそれで答えに窮する。 しかし、そこに立ち止まってみると、それは学校の役目なのだろうかとも思えてくる。 もしかするとそれは、家庭の役割なのかもしれない。 日用会話を超えた言語領域は確かにある。しかしそのような言語領域は体系的に教えることが出来るようなものなのだ

        • 主題と変奏

          主題と変奏 というカテゴリーを考える中で、「創造性」をキーワードにこんなことを考えていた。 変奏を行うには、まず、自作であれ他作であれ与えられた楽曲の分析を行う必要がある。元になっている楽曲の、旋律、和音、リズム、モード…その楽曲に内在している考えられうる限りの要素を抽出・分析しその要素をもとにしてre-composeすることが主題(theme)に対する変奏(variation)だと言うことができるのではないか。 更に、ある楽曲Xがa,b,cという要素を含有している場合

          ヨハネの福音書 冒頭より

          Εν άρχή ήν ό λόγος, καί ό λόγος ήν πρός τόν Θεόν, καί Θεός ήν ό λόγος. Ούτος ήν εν αρχή προς τόν Θεόν. Πάντα δι ' αύτου έγένετο, καί χωρίς αύτου έγένετο ούδέ ένα ό γέγονεν . In the beginning was the Word,and the Word was with God. He was

          ヨハネの福音書 冒頭より

          オイコノミコス

          古来から、家庭において男性は外で獲物をとってくる役割で女性が家を守る役割を担っていた。女性が家を離れられなかった理由は、子どもに母乳を与える必要があったからだろう。 この役割分担は姿を変えながら長い間続いていた。父親からは否定者としての父性を、母親からは受容者としての母性を享受しながら育った子どもは、前者から否定を乗り越えて外部へ働きかける原動力を後者からは自己肯定感を享受する。 現代ではほぼ完全に母親が直接授乳しなくても子どもを育てることが出来るようになった。そして、父

          オイコノミコス

          イスラム教とキリスト教

          キリスト教とイスラム教について、その入信の仕方について比較してみる。 以下の文章は先日のトランプ大統領の演説を聞いたときの違和感を整理するために あくまで個人的に おさえておきたかったことをまとめたものです。 キリスト教に入信するには「洗礼」という儀式を経る必要がある。これは「入信したい」という気持ちが最も重要だけれどもかといってそれだけでは充分ではなく、キリスト教とはなんたるものかを、言わば「勉強」してしかるべき立場の人にそれを認められて初めて入信となる。 その儀式

          イスラム教とキリスト教

          英語教育について

          成長過程の早期における英語教育の促進よりも、日本語を母国語として扱う人間にとって重要なのは日本語を身に付けることだという立場は揺るがない。 では、「日本語教育に力を入れている、大切にしている学校は?」と聞かれるとそれはそれで答えに窮する。 しかし、そこに立ち止まってみると、それは学校の役目なのだろうかとも思えてくる。 もしかするとそれは、家庭の役割なのかもしれない。 日用会話を超えた言語領域は確かにある。しかしそのような言語領域は体系的に教えることが出来るようなものなのだ

          英語教育について

          うずき

          「うずき(疼き)」   僕が読んでいる本の大半は西洋のものであるが、そういった体験の原点がどこにあったのかということを振り返ってみると、キルケゴールが書いた『死に至る病』に辿りつく。正確にはこの書物と出会う以前にも西洋の書物に出会っていたのかもしれないけれど、もしそうだとしてそれが何という書物だったのかは全く思い出せない。  「死に至る病」という表題に出会ったのは中学生の頃、巷で流行っていた『新世紀エヴァンゲリオン』というアニメを通してだった。そのアニメの何話目かの表題が、

          死への不安とPTA

          反復、分析、予測、理論、応用という行程を経て、人間の知識というのは基本的に扇状に広がって行くものと捉えている。自分自身が何らかの論系に所属しているような場合はその体系にそって自分の論点が妥当かどうかという立証が必要なこともあるだろうけど、必ずしもそれが必須だとは思わない。人間の論考というのはどこまで行ってもある種「思い込み」の域を出ないものだ。 そのように自分の知識を広げて行くということは、それだけ扱える言葉も増えて行くということでもある。自分に対して起こる色んなことに対して

          死への不安とPTA

          吉本興行のこと

          僕はドンピシャで「ガキ使世代」なのだと思う。毎年年末にやっている「笑ってはいけない」も広義な捉え方をすれば「ガキ使」だけれど、そのガキ使がまだ深夜放送だった時を知っていて、その深夜放送を観ながら腹を抱えて笑っていたという経験を思いだしながら自分は「ガキ使世代」だなぁと思う。 そしてその頃ブラウン管を賑わしてくれていたのが、「ダウンタウン」というよりも彼らを「兄貴」のように慕うココリコや藤井隆といった芸人の方々で、その中に雨上がり決死隊も入っていた。 だから今回の宮迫さんの

          吉本興行のこと