打検士は知っている
1.打検士という職業
「打検士(だけんし)」という職業があります。
缶詰を「打検棒」と呼ばれる金属製の棒で叩いて、その音を聞き分けて異常品を選別するという、「人間非破壊検査機」 とでも言えるような技術職です。
『アフォーダンス入門 知性はどこに生まれるか』の中に、打検士についてこんな記述があります。
打検士という職業を知ったのはずいぶん前に観たテレビで、そのときはラベルの貼っていない缶を10個くらい並べて「それぞれの中身を叩いて当てる」というゲームを打検士の人にやってもらっていました。
その方はこの道数十年というようなプロの方で、「ブラックコーヒー」だとか「ミルク入りコーヒー」だとか「ミカンの缶詰」だとか、ほんの数秒「コココン、コココン」と叩くだけで次々に言い当てていて、その熟練のワザに感嘆したのを憶えています。
そんな熟練したワザを持つ彼らは、自分たちの仕事を「音を聴く仕事ではなく、音をたてる仕事」だと言います。
打検士にとって、金属のぶつかり合う音の中から、ごくわずかな音の違いを聴き分けることのできる聴覚が重要であることは、誰でもすぐ想像のつくことです。
けれども「叩く」というきわめてシンプルな方法で缶詰の中身を見極めるためには、そのごくわずかな内部の違いから意味のある音の違いを引き出して響かせる、そんな「叩き」のワザもまた必要であるのです。
どんなに耳が良くても、「有意な差異」を引き出せない叩き方では、缶詰の中身の情報を聴き取ることはできないからです。
2.「叩き」はすでにある
「缶を叩く」という行為は単純そのものですが、その叩き方には無数のパターンが存在します。
その無数のパターンのうち、内部のごくわずかな違いによる音の変化から、人間の耳が聴き取れる「有意な差異」を引き出す「叩き」というものは、ごく限られたパターンに絞られることでしょう。
打検士の人たちは熟練のワザによって、その「有意な差異」を引き出す「叩き」というものを、ほんの数秒のうちに探り当てることができるのです。
異常の種類が変われば探るべき「叩き」も変わるし、探るべき「叩き」が変われば「叩き方」も変わります。「これだ!」という「叩き」と巡り会うためには、叩くこと自体が「聴くこと」であるかのような繊細な「叩き方」が必要になるでしょう。
打検棒を持つ彼らの手はとてもリラックスしていて、余計な緊張など一切無いのに、どんな繊細な響きの違いも取りこぼさぬよう、どこか気の張りつめたようなそんな気配を感じさせます。
それはカウンセラーがカウンセリングの際に、もっとも的確な「するべき質問(投げかける言葉)」が何なのかをキャッチするために、さまざまな会話のやり取りの中で揺れ動くクライアントの声や身振りの微細な変化を感じ取ろうとする構えにも似ています。
その出会うべき「叩き(質問)」は、未だ到達もしておらず、この地上に存在したことも無いけれども、その相手の中(あるいは二人の関係の中)に、すでにハッキリと存在しているのです。
その、未だ現われてはいないけれども確かに存在している「叩き」に、自分の「叩き」をチューニングしてゆくようなそんな身振り。
それはまるで、楽器の持つ力(音の魅力)を最大限に引き出そうとする一流の演奏家のようで、いわば打検士は「缶詰を奏でる職人」であるのかも知れません。
3.私たちはすでに知っている
でも考えてみると、奇妙なことです。
まだ知らぬ未知の情報を含んだ「叩き」を発見するための探りの「叩き」が、すでに探すべき「叩き」によって規定されているのです。
佐々木正人は先ほどの本の中でこのように述べています。
そのようなことを考えると、「行為」そのものが「行為の結果」に要請されて起動するかのようにも思えてきます。
私たちは、自分が何を探しているのか知らないはずなのに、その未知の答えに招かれるように導かれるように「そこ」へと向かっている…?
「自分が探し求めていたのはこれだ!」という直感。
「初めて出会ったはずなのに私はこれを知っている」という既視感。
そのような感覚は考えれば奇妙で不思議なことではありますが、でも誰もがたびたび体験する感覚で、私はこの感覚にある種の確信を抱いており、それは私のあらゆる考えの根本原理でもあるのです。