いつかの言葉【マザー・テレサ】
「愛憎」などという言葉があるように、「愛」と言うとその反対の感情として「憎しみ」というものを思い浮かべがちですが、愛の反対は「無関心」だとマザー・テレサは言います。
人間は複雑な感情を抱く生き物ですから、愛といってもいろんなカタチを取るのでなかなか捉えどころがありません。
ですが自分の感情の記憶を呼び起こしてみても、愛と憎しみが絡み合って混在するようなことはあっても、愛と無関心が混在するというようなことは、ちょっと想像できません。
愛も憎しみも、その対象に対して非常に強い感情の集中が行なわれていることに変わりはありませんが、無関心ということにおいては一切の感情的な動きも集中も行なわれません。それはとても大きな違いです。
整体では「注意の集注要求」と言いますが、どんな人間でも誰かに注意を向けてもらいたいと思っているものです。
もちろんそれが愛というカタチであれば、これ以上に幸せなことはありませんが、ときにそれが憎しみというカタチであったとしても、自分に対して誰かが強く気持ちや感情を集注しているという点では一緒ですから、それがその人にとって無意識的なレベルで生きる支えになっているということがあります。
ときどき人を困らせたりして憎まれるようなことばかりやる人がいますが、それもみんなに注意を集注して欲しいのだと考えると、いろいろ得心が行きます。
そのようなカタチでしかみんなの注意を集められないというのも困ったことですが、でもひょっとしたらその人は子どもの頃からそのようなことでもしなければ人に振り向いてもらえなかったのかも知れません。
マザーが「世界で一番怖ろしい病気」だと言うように、まわりの人間にまったく無視され、関心を払われず、まったくの孤独となってしまうことはどれだけ辛いことでしょう。
それはまさに「最も生きる力を失わせる怖ろしい病い」であるに違いありません。
それならせめて憎まれてもいいから振り向いて欲しい。そんな考えを抱いてしまうのも致し方のないことなのかも知れません。でもそれはとてもとても悲しいことだと思います。
そんな悲しいことが起こらないように、子ども時代にはしっかりと注意を集注してあげたいものです。それは愛であり、食べ物であり、温かさであり、それが子どもたちの心身を育むのです。