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粘菌的な思考の素粒子
1.イグノーベル賞
「イグノーベル賞」というものをご存知でしょうか?
「イグノーベル賞」というのは、かの有名なノーベル賞のいわゆるパロディであり、「人々を笑わせ、そして考えさせてくれる業績や風変わりな研究」に対して贈られる賞です。
本家のノーベル賞とは何の関係もないそうですが、いわば科学者たちが真面目にふざけたユーモアあふれる賞で、オーソリティ(権威)であるノーベル賞に対して、ちょっと斜に構えておどけながら真似してみせる「もどき芸」のような、そんな立ち位置の賞です。
ちなみに日本人研究者も過去数多く受賞していて、じつは2007年以降現在(2022年)に至るまで、16年連続で受賞し続けている常連国でもあります。
日本人の受賞した研究がどんなものかというと、「牛の糞からバニラの香りを取り出す研究」だとか、「火災時に眠っている人を起こすのに適切な空気中のワサビの濃度の研究」だとか、「落ちているバナナの皮を踏んだときの摩擦の研究」だとか、「ヘリウムガスを吸うとワニも声が高くなる研究」だとか、一見ふざけているのかなと思ってしまうくらいにユニークなテーマばかりです。
その中に2008年に受賞した研究で、「粘菌にパズルを解くことができる能力を発見した研究」というものがあります。
粘菌の研究で有名な人物と言えば、昭和天皇に粘菌についての御進講をした南方熊楠がいますが、自身が収集した粘菌の標本を献上するときに、キャラメルの箱に入れて渡したというエピソードがあります。
昭和天皇はのちに振り返って「普通献上というと桐の箱か何かに入れてくるのだが、それでいいじゃないか」と面白がられたそうですが、そんな昭和天皇にも愛された南方熊楠という人も面白いのですが、粘菌という生き物もまた大変面白い生き物なのです。
2.考える粘菌
粘菌は、「移動する」という動物的な特徴を持ちながら、「胞子によって繁殖する」という植物的な特徴をも持っているのですが、動物でも植物でもありません。
そして、ときに1メートルもの大きさにまで拡がることもあり、それがすべてたった一つの細胞でできている単細胞生物でもあります。
動物でも植物でもなく、エサを食べながら森を徘徊し、ときに1メートルもの大きさに成長して、あるとき姿を変えて胞子を吐き出して繁殖する単細胞生物。
それが粘菌という生き物です。ヘンな生き物です。謎すぎて私好みです。
そして、そんな不思議な生き物が「パズルを解くことができる」というのですから、ますます奇妙奇天烈摩訶不思議な生き物です。
粘菌は単細胞生物ですから当然、脳という器官はありません。ですから私たちの言う「考える」という行為はできないはずですが、パズルのスタートとゴールを最短距離で結んで解くことができるのです。
つまり、そこには明確な「思考」は存在しないけれども、課題を解決する「能力」が発現しているということです。
粘菌がパズルを解いている様子をふと何気なく見た人は誰でも「粘菌って考えられるの?」と思うことでしょう。これはなかなか興味深いことだと思います。
3.リヤカーを運ぶ子どもたち
以前、ある幼稚園の園長先生に、園の子どもたちが数人がかりでリヤカーを運んでいる動画を見せて頂いたことがありました。
子どもたちはみんなそれぞれ思い思いにリヤカーを運ぼうと作業に関わっているのですが、残念ながらあまり連携は取れていません。
ある子はリヤカーを引っ張り、ある子はとにかく後ろからがむしゃらに押し、ある子は段差を乗り越えようと上に持ち上げ、ある子はその様子をボンヤリ眺め、ある子はより強い力を出そうと隣で変身ポーズを取ったりしているのです。
ある意味みんなバラバラにリヤカーに関わっているので、リヤカーはスムーズには進みません。ですがそれでも紆余曲折しつつも徐々に目的地へと動いていきます。
その間、その園長先生は一切手助けをせずにカメラを回しています。
その見守り方も素晴らしいなと思うのですが、園長先生はその動画を一緒に見ながら「保育では自発性とか自主性とかよく言われるのですが、それっていったい何なんでしょうね?」と問われるのです。
動画に映った子どもたちは、「ちょっとこのリヤカー運んでくれるかな?」という園長先生の言葉を聞いて、「リヤカーを目的地まで運ぶ」という目的の下に集まった、さまざまな自発性と自主性の集合体です。
その集合体は、ある意味、無計画で、統率する個体もなく、各々場当たり的に動いているに過ぎません。
ときに正反対な動きをしてチグハグにぶつかり合ったりもしますが、それでも全体としては目的に向かってゆっくりと進んでゆくのです。
その姿はまるでアリたちが大きな獲物を必死に巣穴まで持ち帰ろうとしている振る舞いにそっくりです。
アリの群れによーく近づいてミクロな視点で見てみると、いろんな奴がいてそれぞれ勝手気ままに振舞っているようにも見えるのですが、じっくり腰を据えてマクロな視点で見ていると、アリの群れは着々と獲物を巣穴に運んでいるのです。
そこにはある意味、先ほど述べた「粘菌がパズルを解く」ような、そんな知性が現われているようにも思えるのです。
4.思考の素粒子
子どもたちが寄ってたかってチグハグなことをしていると、周囲の大人はつい「こうやったら?」とか口出しをしてしまいがちです。
ですが、端から見たら効率の悪いことをしているようにも見えるその子どもたちの集合体は、さまざまな思惑やさまざまな方向のベクトルが混在した「集合的思考」をする存在のようにも思えます。
さながら「考える粘菌」です。
チグハグとは言え、それぞれ一人一人が自分なりに考えていることは確かで、それが複雑に絡み合って総体となった集団が、「リヤカーを運ぶ」という行動の中で現わす問題解決能力は、確実にその総和以上のものになっています。
つまり、さまざまな思惑が重なり合うことで、ふとした瞬間に誰も思いつかなかった解決策が、集団内に突如として発現することがあり得るということです。
その思考プロセスの主体はいったいどこにあるのでしょう?
自主性とか自発性とはいったい何のことを言うのでしょう?
リヤカーのタイヤが段差に引っかかっていることに気づかないで必死に引いている子がいて、それに気づいて「引っかかってるよ」と教えてあげる子がいて、ちょっとリヤカーを上に持ち上げようとする子がいて、そしてさっきまで変身ポーズを取っていた子がパワーアップして後ろから押したりして、そんないろいろが絡み合ってリヤカーは段差を乗り越えていくのです。
結局、リヤカーを引いている子は段差に気づかないまま引っ張り続けていて、変身して押した子は「さすがオレの変身パワー!」とか思っていて、リヤカーを上に持ち上げた子は「段差は持ち上げないとネ」なんて考えていたりするのでしょうけど、そんなさまざまな思惑を引き受けてリヤカーは進んでいくのです。
誰のどんな行動が、いつどこでどんなふうに役に立つのか、誰にも分かりません。
さまざまな方向を向いたベクトルが重なり合って、ボンヤリとその全体的な方向性を指し示している思考は、ある種の「思考の重ね合わせ状態」であり、何かそれは単純ではないというか、奥行きがあるというか、総和以上のものを帯びた思考であるような気がするのです。
パズルを解く粘菌や、リヤカーを引く子どもたちのような振る舞いは、じつは私たちが「知性」と呼んでいるものを構成する素粒子たちの踊りのような、そんなものを見せてくれているのかも知れません。
私は、そのような「思考の素粒子」の振る舞いを大切にしたいなと思うのです。