思考が成ろうとするカタチ
1.シュタイナー自伝を読む
シュタイナーの文章を読んでいると、「いったいこの人の頭の中はどうなっているんだろう?」と思わないではいられません。
シュタイナーの描き出す表象世界はとにかく壮大かつ緻密で、なおかつそれを普段まったく聞き慣れない神秘学用語で構築してゆくものだから、慣れない人は一瞬にして置き去りにされてしまいます。
私もシュタイナーを読み始めたときには、何度置いてけぼりにされたことか知れません。
一つのセンテンスを何度読み返しても、書いてあることのイメージがまったく湧かずに、結局、半ページも読み進めぬうちに眠りの世界へと落ちていってしまったものです。
良い睡眠薬でした。おかげで何度も電車の中で本を落としましたが…。
でもそれでも必死になって一生懸命噛みしめていると、だんだんゆっくりと味わいのようなものが感じられるようになってくるのです。変な話、まさにスルメのようなもので、そのうちその滋味深さにハマってくるんですよね。奥行きが果てしない。
それで、この人はいったいどんな子ども時代を過ごしたらこんな風になるのかと興味が出てきて、本人の自伝を読めば少しは分かるかと思って、『シュタイナー自伝 上』を読んでみたことがありました。
相変わらずの硬い歯応えの文章ではありましたが、それでも少年期や青年期のシュタイナーがいったい何を焦点にして自己形成していったのか、本人の言葉で描かれていて、「へぇ~」と思うことばかりでした。
シュタイナーのあの緻密な表象世界に感じた幾何学的なセンスは、本人も語るとおりやっぱり大事な要素でしたし、それがシュタイナー教育のさまざまなメソッドの中に通奏低音のように響き渡っている意味というのも、よりハッキリと理解できました。
2.思考と感情を切り離す
自伝を読みながら私が興味を持ったのは、シュタイナーが出会ったいろんな人との精神の交流において、「思考と感情を切り離す」という自らの身振りを繰り返し描いていることでした。
彼に影響を及ぼしたさまざまな知人や先達たちが登場するのですが、シュタイナーはその誰に対しても心からの敬意と愛情を示しつつ、そこに生まれた自身の中の「共感」と「反感」を冷静に描き出すのです。
たとえば、ある人の結論には嫌悪を感じるが、その思考の方法には真実の一片を見て敬意を払い、またある人からは何も学ぶものは無くとも、その佇まいに敬慕の念を持つ、というような描写です。
そうして、シュタイナーは人の話を聞きながらそこに開示されてゆく精神世界を観照しつつ、それに対して湧き起こる自らの感情については、冷静に感じ取りながらもキッチリと区別するのです。
しかも、自身の中に生じた「偉大だ」という印象と「嫌だ」という印象の二つの異なる感情を、ごちゃ混ぜにすることもなく、どちらかを捨象してしまうこともなく、「どこかで調和が見出されるに違いない」とそのまま一緒に手を取り合ってゆくのです。
多くの人はほとんど、それとは知らぬうちに自分の感情に浸潤された思考を形成し、感情的に考え、感情的に結論を出すものですが、シュタイナーは思考と感情を切り離して「純粋な思考」をする上、自身の中に生じた異なる感情に対しても、どちらかを追い出したりなどしないのです。
「頭では理解できても腑に落ちないこと」ってそのまま抱えていると消化不良を起こして具合が悪くなりそうですけど、シュタイナーはどうやって抱え込んだのですかね。「考える力」が桁違いとしか思えません。
まあ何というか「頭がタフ」ですよね。ホントに…(賞賛&呆れ)。
3.感情にドライブされるということ
「考える」という行為は、思った以上にエネルギーを消耗するものです。
脳の活動が、他の臓器とは比べ物にならないほど莫大な量の酸素と糖を消費していることからも分かるように、「考える」ということは、けっこうタフな「肉体労働」なのです。
私はときどき講座の参加者に「27かける36は? 暗算で答えて下さい」というような質問を投げかけることがあるのですが、ほとんどの方は質問を聞いただけで考えることを諦めてしまいます。(少なくともそんな表情です)
何故ってまあちょっと空想すれば分かりますが、頭の中で行なう作業がメンドくさいし疲れるからです。
それは普段運動などまったくしない人が、「この場でスクワット30回やって下さい」と言われたときに「え…大変…メンドくさい…」と感じるのと、同じようなものだと言えるでしょう。
さしたるモチベーションもないままにしなければならない運動は、数字一つ指一本動かすことさえ何だか大変で疲れるのです。
それに対して、「胸部の律動器官は疲れることがない」とシュタイナーは言います。
たしかに心臓という器官が生まれてから死ぬまで休むことなく拍動し続けることからも分かるように、あるリズムを保って繰り返される反復運動は、ほとんど疲れることがありません。
ですから誰でも自分のリズムやペースで動いていると、快適に運動や作業が続けられるのです。モチベーションがあればなおのことですが、たとえ無くともリズムに乗ってさえしまえば、疲れ方がずいぶん違います。
でもそこに何らかの邪魔が入って自分のペースが乱された途端に、ドッとくたびれてしまった経験というのは、誰にでもあるのではないでしょうか。
車の運転をする人はよく分かると思いますが、前を運転する人と運転のリズムが合うか合わないかで、圧倒的に疲れ方が変わってきます。ですから長時間ドライブするときは、「この人の運転、気が合うなぁ」と思える人の後に付いていくと楽なのです。渡り鳥たちの方法ですね。
また、胸部の律動器官は「リズム」というものと同時に、私たちの心魂に「感情」というものを生じさせています。
胸部から生まれる「リズム」に拠って動いているとほとんど疲れを生じないのと同じように、胸部から生まれる「感情」によって動くこともまたあまり疲れを生じません。
つまり、感情に突き動かされて動いているときも、人は強靱的な体力を見せるのです。怒りを持って、喜びを持って、憎しみを持って、運動が展開されている間は、エネルギーが次から次へと湧いてくるのです。
そのように「感情に浸された思考」や「感情に突き動かされた行動」というものは、そのエネルギーを感情から供給され、きわめてパワフルにドライブするのです。
4.思考の自然なカタチ
ですが、そのように感情に突き動かされることで多大なエネルギーを得るということは、その代償に、思考も行動もきわめて主観的な感情と分かちがたく結ばれることになり、一挙手一投足が己の感情に浸透され、その満足のために奉仕することになります。
別にそれがすべて悪いとは言いません。
それによって、およそ通常では考えられないような超人的な仕事をして物事を変えていくこともあるだろうし、またそのような感情に浸された運動(思考、行動)によって、人が癒されるということもあります。
私もしばしば妄想に耽って愉しむことがありますが、「思いっきり自分の感情に浸された思考に沈潜する快感」というものは、たしかにあります。
そのように感情に支えられた思考は、私たちにさほど負担を強いることなく次々と展開し、スムーズに構築されてゆくので、ある種の快感を感じさせるのです。
そのときその思考は、私の個人的な感情の入り混じった私好みの姿カタチへと形成されますが、それがその思考内容が本来取るべき姿カタチであるとは限りません。
当然ですがそうなると、その「思考のカタチ」は長い自然の経過に耐えられるほどの「必然性(自然性)」を持つモノではなくなります。
良いとか悪いとか言うことでは無く、「感情に力を借りる」とは「そういうこと」なのです。エネルギーを得る代わりに、歪むものがあるのです。
それは、私たち人間社会のあらゆる所で見られる「癒着の構造」にも似ているかもしれません。
私たちが個人的な感情から離れて、「概念そのものが自ずから成ろうとするカタチ」に従って思考することができたら、それは美しいことだなと私は思います。
そこには静かではありますが、たしかに思考を支えるエネルギーがあって、その静かな力を汲み取りながら思考し続けることはできるはずなのです。
思考そのものが「成ろうとするカタチ」に従って「考える」ということ。自分もそのような静かな「考える」に身を委ねられるようになりたいと思います。
でも不思議なのですが、そのときいったい「何」が考えているのでしょうかね? 静かになって考えてみたいと思います。