からだを活かす頭の働かせ方
整体には「体癖(たいへき)」という独特な分類法があって、その感受性の傾向や体運動の習性から人間を十二種類のタイプに分類しています。
からだの動かし方から姿勢や体型、あるいは活発な臓器や病気の傾向、そして感受性の傾向や注意の焦点、さらには心の反応の仕方や性格にいたるまで、さまざまな要素を絡めながら語られる体癖という人間分類法は、非常に面白く、整体の講座のテーマとしてもつねに人気のトピックです。
そのように人間をいくつかのタイプに分けてより深く理解しようという試みは、古来からさまざまなところで行なわれてきました。
血液型や星座などは今でもよく語られる分類法ですし、エニアグラムや四大気質論やアーユルヴェーダの体質論、あるいはビッグファイブや民族論や干支や四柱推命など、そして現代のホットトピックとしてはジェンダーというのも人間分類の方法といえばそうですし、ほかにも私の知らないさまざまな分類法があることでしょう。
どの分類法もそれぞれ独特な観点から人間を分類していますが、どの説明を聞いても「なるほど。確かに当てはまっているかも…」と思えるような、深い説得力があったりするのがまた面白いですね。
どんな分類法であれ、「恣意的」と言っては言いすぎかも知れませんが、どのようなところに線引きをしてどのように分類するかは、観察分類する側の考え方によって行なわれますから、決して絶対的なものとは言えません。
たとえば日本では虹の色は一般的に「七色」と言われていますが、世界には「二色」だという文化から「八色」だという文化まであって、それぞれの文化によってそこに見ている色が異なってくるのです。
もちろんそれは、地域によって虹の色が変わるというわけなのではなく、実際の虹には無限のグラデーションがあって、それが何色に見えるのかということは、それを「どのように見るのか」という観察者の問題なのです。
人間で言えば100人いれば100のタイプがあるというのが現実ですから、精確に語ろうとすれば100のタイプに分類して語ることになるわけですが、それでは結局個別に語っているに過ぎませんから、「大ざっぱに言ってこんなグループに分類できるよね」というのが、さまざまな人間の分類法だと言えるでしょう。
私はどんなものであれ、「物差し」は複数あった方が良いと思っているので、いろんな分類法があって、そしてそのいろんな尺度から物事を捉えてみて、そしてそれを持ち寄ってみれば良いと思っています。
ですから上記の人間分類法も、体癖的にはこう、血液型ではこう、星座的にはこう、気質論ではこう、アーユルヴェーダではこう、というように並べてみて、その共通点や相違点などを対比させたりしながら、より深い理解へと進めていけば良いと思うのです。
私自身は、野口整体とシュタイナーの理論が好きなので、体癖論と気質論の二つを中心に考えることが多いですが、比較的並べやすいんじゃないかと思われるその二つでさえ、繋がりそうな部分と重なりそうのない部分とがいろいろあって、面白いと言いますか難しいと言いますか、なかなか研究しがいのあるテーマです。
最近の個人的なテーマとしては、「思考や意志というものが、一人一人のからだの中にどのように拡がっているのか」というのが非常に興味深いテーマです。
体癖や気質によって、あるいはそれ以外の性質によって、思考や意志というものが一人一人そのからだにとてもグラデーション豊かな拡がり方をしているのが本当に面白くて、「何なんだろう?」とワクワクしながら観察しています。
思考の働きがとても強いと思いきや思考自体はからだに引きずられる人、感覚を冷静に思考に置き換えられるが統制はできない人、思考と意志とがバランスよく対話できている人、思考がからだの四肢に入り込み手足の動きとなっている人。
とにかく見渡せばいろんなタイプの人がいますが、「走る」という同じ行動でも、人によってそのからだの使い方にずいぶん違いがあるように、「考える」という行動においても、人によってからだの使い方が大きく異なり、そしてそれによって思考自体に癖が出てくるし、またその現われも本当に人それぞれに賑やかになるのです。
野口晴哉が、日本画家の杉山寧の「生」という絵に描かれている裸婦を見て、「頭のはたらきでからだが活きている」「智恵で育てたからだ」だと評していますが、「思考」というどちらかと言えばからだの働きを抑制してしまうことの多い働きを、からだを活かしていく方向へと上手く使いこなしていくことは、ある種の身体操法(頭脳操法?)の理想でもあります。
「考える」という人の営みは、じつは思っている以上に「身体性」の関わっていることで、身体運動をするときに、基礎トレーニングをしたり、コーディネーショントレーニングをしたりするように、思考活動においてもおそらく同じようなトレーニングが必要になったりするのです。
からだの中のホルモンバランスがちょっと変化するだけで、私たちの精神も思考も大きく影響を受けることから分かるように、あらゆる人間活動において「身体性」というものはその土台となっています。
人間をひたすらに冷めた状態へと、地上に数多ある一物質へと固化させがちな現代の「思考の在り方」から抜けだして、からだを冷ましすぎず、萎縮させすぎず、かと言って暴走させずに、その力を存分に発揮させることのできる、そんな頭の働かせ方。
私は、子どもの教育は「からだを冷やす方向」ではなく、「からだを温める方向」であるべきだと考えています。
ですから、教育によって子どもが冷めて冷えていくのなら、それはどこか間違っているのであって、子どもの中の「熱」がからだの指先にまで広がってゆくような、そんな方向へと目指していったら良いのだと思います。
誰だって、その「人の熱」というものは何となく感じているはず。まずは自分自身の中にある「熱」を、改めて感じ直してみると良いかも知れませんね。