愛は振り返って初めて気づく
1.からだがやってくれていること
たとえば「ノドが渇いたなぁ…」と感じたとします。「水を飲もう」と思い立って戸棚からコップを取り出し、水道の蛇口をひねってコップに水を注ぎ、ゴクゴクとその水を飲み干します。
それは多くの人にとってはさほど難しい行動ではないでしょう。たいていの人はほとんど何気なしに行い、気にも留めていないかも知れません。
ですが、そこで行なっている行動を改めてひとつひとつ考えてみると、「自分がいったいどうやっているのか」よく分からないのではないでしょうか? みなさんは飲んだ水をどうやって体内に吸収しているのか答えられますか?
いったい私たちはどうやって「からだに水分が足りない」ということを知り、そしてそれを「ノドが渇いた」という感覚として感じるのでしょうか?
またコップに水を注ぐ時にも、徐々に重くなるコップをどれくらいの力で支えるのか、そして飲んだ水をどうやって吸収し、各部位にどれくらいの割合で分配し、運んでいるのでしょうか?
私たちは日常生活の中で、いま挙げたようなさまざまなことをほとんど考えること無しにこなしています。何だったらまったく関係ないことを考えながら、鼻歌まじりでこのからだを使いこなして、さまざまな日々のタスクを支障なく進めているのです。
2.上手くいっているときほど気づかない
どうしてそのような芸当ができるのかと言えば、からだが私たちの意識に代わって、まさに無意識のうちにそれらのことを制御してくれているからに他なりません。
からだは、私たちの意識を煩わせることなく日々の生活を快適に過ごせるよう、さまざまな活動をこなしてくれています。
もし仮に私たちが生きていくのに必要なすべてのことを、自分のアタマで計算してやらなければならないとしたら、私たちのアタマは一瞬でパンクして指一つ動かすことすらできないでしょう。
からだは眼にゴミが入れば涙を流してそれを洗い流そうとしてくれます。ノドに何かヘンなものが入れば咳やくしゃみをして排出しようとします。腐ったものを食べれば吐き戻そうとするし、腸まで入ってしまった場合でも、それ以上吸収しないよう急いで排泄しようとします。
からだは私たちが異常に気づくより前に対処してくれているのです。私たちはいつもからだが対処してくれた後になって初めて、何か良くないことが起きていることを知ります。私たちのアタマの意識というのは、いつも後から遅れて気づくことばかりです。
私たちが自分のからだについて、何も気にならず、何も考えもしない時、それはからだが完璧にそして健やかにすべての活動をこなしてくれている時です。
つまり、からだが生命活動を完璧にこなせばこなすほど、その活動は私たちの意識にのぼらないのです。
あるボランティア活動をしている人が言っていましたが、それはボランティア活動などでも同じだそうです。つまり素晴らしく上手くいっている時ほど、その活動は決して目立たず、気にも留められず、そして感謝されることすらないのです。
3.振り返って気づくこと
そしてそれはおそらく子育てにおいても同じことが言えるのだと思います。子育てが上手くいっているときほど、子どもはそのことに気づきもしないのです。
逆に小さな子どもが親に感謝を感じているとしたら、それは何か良くないことが起きているのかも知れません。
自分がいかに多くの愛に囲まれて育っているのか、子どもが何も気づかずに「ありがとう」と思うこともなく育つとき、そこではとても幸せなことが起きています。
きっとすべてがちょうど良く、つつがなく、絶妙なタイミングでもって、「子育て」と「子育ち」がピッタリ寄り添っているのでしょう。
そして何も気づかぬままに子どもも大きくなって、やがてその愛の庇護から外の世界へと自身の足で踏み出していくことになり、あるときふと何気なしに振り返ったそのときになって初めて気がつくのです。
自分がどれほど多くの愛を受けてきたのかを。
人は、自分が何によって支えられているのかを、ほとんど知ることはありません。そのほとんどは一生気づかないままでしょうし、もし気づいたとしても、それはずいぶん後になって初めて気づくことばかりでしょう。
それら私を支えてくれているコトたちは、どんなに注意深く気づいておこうと思っても、決して意識しきれるものではありません。
でもそれでも、後になって「もっと早く気づいていれば…」というような後悔だけはしないためにも、「今この瞬間にも自分の気づかぬところでさまざまなモノに支えられているのだ」という気持ちだけは、つねに忘れずにいたいと、そんなことを思うのです。