独学のススメ
これまで時々、何度か、「独学」について書いてきました。
ただ、基本的に、いつも書き散らかしているので、その書いたものは過去へと押し流されていきます。
今日、また改めて独学について書いてみよう、と思いました。
松聲館スタイル
私の稽古スタイルは一人稽古です。
その稽古は教わった何かを一人で繰り返し行う、という事よりも、何を稽古するかを「勝手に決め」、「勝手に行う」というものです。
もともと、人から教わるのが苦手だったこともありますが、いつの間にかこのスタイルに落ち着きました。
この稽古法は甲野善紀先生に教わったもの。「松聲館スタイル」というものです。
先生の技を受けてもう30年近くたちますが、その時の衝撃があまりにも強く、それまで持っていた技を習い、コツを探り、黙々と努力をする方法では全くたどり着けないことを知りました。
甲野先生はとてつもない威力を持つ不思議な技の秘密を隠しません。そして、その術理の解説をこれでもか、これでもか、と教えてくれました。ならば当然、やる事は一つ。松聲館スタイルの稽古を自分自身で始める事、それしかないわけです。
まぁ、このあたりの事を語ればどれだけでも書けてしまうし、私の人生を変えてしまった稽古法という事で気持ちも入りすぎるので今日はやめておきます。
もっと、シンプルに、「この時代に独学がなぜ必要か」について離します。
日本は昔とは違う国になった
いつの間にか日本は昔とは違う国になっているようです。
機械も増え、インターネットもあり、生活スタイルが変わったのはわかると思います。ただ、便利になって、生活が変わっているのはどこの国も同じ、そう思うかもしれません。
まぁ、日本を出た事のない私ですので、外国の事など知りません(笑)。
「昔の日本」と言いつつ、年齢以上の昔の日本の経験などありません。思い込みが強いのではないか、と言われたならそれまでです。
それでも、今、感じられる程度であっても、もう、現代の流れに乗って何かを学ぶのは危険ではないか、と思うようになりました。
現代のスピードって速いです。
どんどんと新しいサービスが生まれています。情報を得なければ様々な面で損をする。そうかもしれません。
誰もがスマホを持ち、勝手にどんどん情報が入り込んできます。ちょっとでも興味があればクリックすれば、そこにわかりやすく答えがあります。
ちょっとの行動で大きな成果が得られるならやらないのは損だ、と思うかもしれませんが、その結果を優先しすぎるところが危うい、そう感じています。
まさかはいつかやってくる
どんな事であっても、最初は何とかなります。丁寧に教えてくれる人がいて、一つ一つの行動を教えてくれます。
ネットの世界なら、こうして、あぁして、そうすれば、ほら、おめでとう、こんな簡単に結果が出ましたよ、となります。
そして、何度か、それを一人で行っていけば自然と身体は「慣れ」、考えなくても動けるようになります。
悩みながら行った最初はすぐに乗り越えます。そして、その知識をもとにどんどんと大きな成果を求めて、手に入れられるようになるでしょう。
しかし、どんな出来事であっても、必ず、「失敗」をする時がやってきます。百回うまく事が進んだとしても、百一回目に失敗をするかもしれません。
失敗はある、と思っていればいいのですが、うまく行き過ぎる事で失敗自体の経験が足らなくなり、大きな成果を得ている中での失敗になると、その失敗の大きさも大きくなってしまうのです。
例えば・・・
株やFX、仮想通貨などの金融情報があります。
昔ならきっと、お店に行って、証券マンからレクチャーを受け、取引を行い、成果を得ていたはず。
それが今はネットが当たり前。目の前には金融取引の情報があり、シュミレーションも出来、バーチャルの世界でトレーニングをして力をつけられます。
現実のお金を使う時には、もう、利益を簡単に出せるようになってしまう人もいるはず。子供の頃から「ゲーム感覚」に慣れているからかもしれません。
利益が出てうれしい、それはわかります。利益を出すために行っているはずですから。
しかし、どんな人間にも間違いがあります。これでいいはず、と思ってもうまくいかない事があるはず。
大きな利益が出せるようになるとわかれば、種銭も増えていきます。複利の力は元本があってこそです。コツコツと積み上げた利益。しかし、それが一回の失敗で大きく損失にもつながる事も知らなくてはなりません。
調子に乗っている時には考える事が出来ないのが人間です。
そして痛い思いをして得る経験は大切、それもわかります。しかし、「技術」は学べますが、経験を学ぶ方法がほとんどない、それが問題なのです。
SNSだって・・・
人とのつながり方を変えたSNSもそうかもしれません。
昔なら顔と顔を突き合わせなくてはコミュニケーションは成り立たなかったはず。
しかし、今は顔も知らずにコミュニケーションが生まれます。また、こちらは知らずとも、一方的な興味、好意、敵意で繋がりが増えていきます。
たまたまブレイクをしてフォロワー数などが数万、数十万になってしまう事もあるでしょう。人から注目を浴びれば快感も生まれ、自己重要感も増します。
ただ、同時に、責任というか、影響力も増えるのです。
すこし常識と違う意見を持ってしまった時、そこから生まれる負の成果も同じように大きなものになってしまいます。
フォロワー数を増やすテクニックは簡単に学べます。また、それを手助けしてくれるサービスだってあるでしょう。
その方法を学びたくなり、学び始める事は簡単ですが、そこにも独学があっていい、と思うのです。独学であれば、歩みは遅々とするはず。そのゆっくりとした時間が、頭を柔らかくしてくれるはずです。
昔の人は強かった
昔の人は強かったのだと思います。電化製品も、十分な食料もなく、生活は不便で、危険でした。
ただ、それが「当たり前」だった世界です。地球上のどの国にも電化製品はなかったのです。その不便さに文句を言う相手すらなかった、そう思います。
そんな厳しい世界を生きれば、自然と耐える力は強くなります。
嫌な事があったとしても、それそのもので心は折れず、何とか耐え忍び、とにかくその日を生きる。
そんな暮らしの中でたまたま興味を持ったり、必要に応じて「技術」を学んだのではないか、と思うのです。
誰もがそんな耐え忍べる身体を持っていた時代に残る教え、技術はどんなものだったのでしょうか。
実は私、その技術は今もちゃんと残っている、と思っています。
コツコツを教えを残す真面目な人たちが長い年月に負けず、ちゃんと教えを残してくれている。組織、流派の真剣さはとてつもないのです。
耐え忍べる身体が現代にはない
ただ、その教えは「耐え忍べる身体」があってこその教え、そうとしか思えません。
教えは一言一句、ちゃんと残っている。むしろ、一言でも変えようなら大問題に発展する組織だってあるはずです。流儀を作った開祖を大切にして、教えを未来へと遺し、つなげていく。思いは立派です。
しかし、まさか、たった100年程度、いや、50年、30年程度でこんなにも「身体がなくなる」とは当時の人は考えなかったはず。そして、今残っている多くの人も、身体がなくなっている、とは気づいてもいません。
これは断言できます。
昔の人とは身体が違う、身体感覚が違う、身体感覚は失われてしまっている、のです。
ただ、組織的にやっかいなのは、数の助けがそこにある、という事。
大勢を抱える組織であれば、無意識的に困難を困難と感じない身体を持っている人が数パーセントいる、という事です。
教えは残っている。
そして、そこに集う人が皆、その教えを同じように学ぶ。そして、出来る人は出来るが、出来ない人は出来ない。そんな結果が現れるわけです。
教え、技術は言葉として残っても、身体の方は人任せ、となれば、うまくいくか行かないかは運任せ、となります。
人は絶対に、老いる
さらに厄介なのは、若い時にうまくいった人であっても、歳を重ねれば必ず老い、衰えます。
そして、考えればわかる事ですが、昔よりも寿命が延びている、という事は技術を残した先人さえ知らない、衰えた身体で生きていかなくてはならない、という事です。
超高齢化社会は現代が初めての事。誰もが初めての事を経験しているわけですから、もう、「教わる」事を第一に考えてはダメな事がわかるはず。
とは言え、組織にいれば、その伝統を残さなくてはならない、という気持ちが出るのはわかります。皆、責任感があり、優しいのです。
ただ、自分がその組織にいて、伝統を伝え、残す役目を持っているのかどうかは時々問わなくてはいけない、と思うのです。
組織の必要性を問う
組織に不満はつきものです。大勢が集い、進むのですから意見が合わないのは当然です。もしかしたら、その組織にいなくてもいいのかもしれない。自分の心に問う時間があってもいいかな、と思います。
当然、組織には必要とされいる、と思う事もあるでしょうし、長い年月を費やしていけば立場もあるし、仲間もいる。それらを捨てて独学へといく、という選択はなかなか出ません。
ただ、その問いを何度かしていくうちに、自分の人生は自分にしかわからない事を問わなくては見つからない、と気づく時が来たりします。私はそうでした。
なんだかんだと言って、現代で組織を維持するにはお金が必要です。
お金を集める集金システムがどこの組織にもあります。
入会金があり、年会費があり、月謝があり、資格認定の受験料、合格した後の登録料、支部を出したなら看板代、上納金、いろいろです。
思いは素晴らしくとも、現実的な問題としてお金がその間でエネルギーのやり取りをします。
するとどうなるか、上達、という成果以上に、養分として存在してくれる人を必要としてくるわけです。綺麗ごとだけでは存続できません。
当たり前が時間を食いつぶす
しかし、あまりにもこれが「当たり前」であり、誰もそこを問わず、組織を作り活動をする事に疑問を持ちません。
そして力ある人が組織を作れば自然と人が集まり、大きくなり、ルールが生まれます。ルールが生まれれば、それぞれの特徴、個性以上に組織を維持するための強制力が働くようになるのです。
先に「松聲館スタイル」という話をしましたが、甲野先生の稽古はまさに、この点に関してもよく考えられていました。
松聲館という甲野先生の道場、すでにそこの「組織」は解体をして、甲野先生おひとりで全国各地に行かれ、稽古をしています。
その稽古は一回稽古制。先生に入門、というのが物理的にありません(笑)。
私が出会った頃はまだ、入会、という仕組みがあったように思いますが、先生の知名度、露出が増えはじめた時に、稽古研究会を解散、と言われたように記憶しています。
ただ、もともと先生とは名古屋、東京と離れた場所にて個人的に稽古をしていたので、組織が解散しようが全く関係がありませんでした。
この方式を強制されたわけではありませんが、私もいつの間にか、このスタイルで稽古をして、仕事にもしてしまいました。
カラダラボ、という名前を付け活動としていますが、そこにいるのは私だけ。入会は無いし、月謝もない、当然年会費の更新もないし、段位や資格などもありません。その日、興味を持ってくれた人があつまる一回稽古制の場、それだけを提供しようとしています。
そして学ばなくてはいけない基本もないし、技もありません。
稽古の場を共にしても、それぞれが勝手に何をしてもいいし、何を考えてもいい。私の話を聞かなくたって、そこにいてもいいんです(笑)。
これは変なように思うかもしれませんが、私が初めて甲野先生の稽古を受けた時に驚いたそのやり方「そのもの」、私の工夫は全くありません。
教わってはいけない
軽い気持ちで書き出したものの長くなってしまい、独学について語る、という本来のテーマからも外れてしまいました(笑)。
ただ、色々とあって、「教わってはいけない」という結論を持ちました。理由をもう一度簡単にまとめれば、技術を学んでも、耐え忍ぶ身体がなければ、イザという時、まさかという時、大きな失敗で再起不能というか、まわりにも迷惑をかける大きな負の成果を得てしまうからです。
技術を学ぶだけではなく、それを使う私という存在を追求しなくてはいけないのです。そして、私という存在は私という存在以外では決して掘り下げられないものだからです。
稀に「ソウルメイト」という存在に出会い、お互いが学びあえる状況になる人もいるかもしれません。しかし、ソウルメイトを先に探しに旅に出れば、それだけで自分を探る時間が無くなります。
自分自身を掘り下げ、自分という存在に対して理解が深まらなければ、求めるソウルメイト自体も見つかりません。
独学をしましょう。
独学は組織の中にいても出来るものです。空いた時間の少しずつ、自分の身体を探る機会を見つけ、試していく。それはもう、立派な独学です。
独学による成果も指数関数的に上がります。3年独学をすれば、ずっと教わり続ける人とはまるで違う人になるでしょう。
5年、10年、30年独学を続けたなら、間違いなく、「変人」と言われるはず(笑)。
しかし、その「変人さ」は長い年月によって築かれたもの、変であることに不思議な自信が生まれてきたりします。
一回稽古制のいいところは、お会いしていない間にある変化を楽しめる事。今、何年かに一度、というスパンで稽古する人もいますが、ガラリと変わる印象に驚かされたりします。
組織であればこうはいきません(笑)。月謝の納入が遅れればそこへと行く足が遠ざかるのは当然です。年会費を納めなければ、組織も個人に何かを頼む事はありません。その人以外の多くの人との関係を維持していく方がよっぽど大切。金の切れ目は縁の切れ目、それが大抵の組織。
独学で学ぶから、私という存在がみつかり、独学をしている相手だから、さらに私という存在を共に掘り下げ行ける事になり、共有している「人間とは何か」という問いに対して向き合う事も出来ます。
ぜひぜひ、独学をしてみてください!
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