![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/161234555/rectangle_large_type_2_d104dba103d4cc6871bbd20cb11d76a8.png?width=1200)
読書記録(29)林芙美子『放浪記』
尾道愛と、読書中毒。
お金が無い。常に無い。
それでも、本を読む。買っては読み、読んでは売る。
チェーホフ、シュティルナー、ヴェルハーレン、村山槐多、アルツィバーシェフ、シュニッツラー、志賀直哉、佐藤春夫、葛西善蔵、オスカー・ワイルド、徳富蘆花、芥川龍之介、クープリン、サン=ピエール、小林一茶、ウォルター・ペイター、ハインリヒ・ハイネ、ホイットマン、プウシュキン、ユージン・オニール、北原白秋、イバニェス、森田草平、ゴンチャロフ…
さながら“読書”放浪記。私にとっては、知らない作家や詩人も多く、ここで登場したことによって興味が湧いた。
常に腹が減っている状態で、美味いものを思い浮かべながら、それでもやはり本を買い、詩や小説を嗜む。その価値観を尊敬。価値観というより本能か。結果、本能の発露として作家になったような。
これだけ生活苦ネタをキャッチーに書き連ねる人が、小説『浮雲』では詩的なメタファーを、高踏的とも言えるくらい矢継ぎ早に繰り出していて、あまりの文体のギャップに驚く。書いた時の年齢が違うとはいえ、『浮雲』が作家としての本気だとすると、『放浪記』における卑屈な語り口は過剰な韜晦に見える。そうした可笑しみある表現が本作の最大の魅力になっているのだけれど。
詩が度々出てくる。作者本人は小説よりむしろ詩が好きだったのだろう。このセンスが『浮雲』で見られる詩的なメタファーに繋がっている気がして納得。他作品はどうなのだろう。
その詩が、けっこう難しい。自分の感受性と想像力の欠如が嘆かわしいばかり。でも詩集は読んでみたい気がする。
高等女学校時代を過ごした尾道はいつまでも作者の心を捉えて離さなかったよう。母への思慕も加わって、度々尾道に戻って来る。5年ぶりに帰ったシーンは、尾道駅すぐ近くの碑に刻まれている。
海が見えた。海が見える。五年振りに見る、尾道の海はなつかしい。
![](https://assets.st-note.com/img/1731161074-8sq69pIb04jLYGOiVcTQ17fB.jpg?width=1200)
一方、室生犀星の詩「ふるさとは遠くにありて想うもの」(P113、515)を思い起こしており、単純なノスタルジーではないみたい。
第一部から第三部まで時系列順だと思い込んで読んでいたが、どうやらそうでないことを途中で察するまで、よく呑み込めず混乱した。巻末解説に事情が詳しく書かれていたが、作者のある時期の日記から、第一部『放浪記』に収められなかった部分を第二部『続放浪記』に、さらにその後『放浪記第三部』として上梓したという経緯らしい。検閲の恐れ等から第一部『放浪記』に収められなかった箇所を集めたものが第二部・第三部であると。しかも、元の日記には、これら『放浪記』に抄録されることのなかった日のものもあったようだが、日記自体が行方知れずのため今となっては知る由もないとのこと。
故 森光子さんが舞台『放浪記』で見せるでんぐり返しが有名で、もしかして原作に出てくるのかと思ったが、脚色だった。
尾道での生活を題材にとった『風琴と魚の町』の執筆に取り掛かった頃の日記が、第三部で出てくる。是非読みたい。