Wholisticな人間関係の在り方

QOLを上げて、不快な体験をできる限り減らし、最小限のコストで最大限の幸福を獲得し、長期的な視座で合理的に人生を設計していく。

そういうタイプの人たちは自分の "幸福度” を上げようとしている。

生まれ育った町やそこで関わった人々に感謝し、めんどうな慣習や非合理的な伝統を嫌々ながらも引き継いで、責任に縛られながらも、長大な物語の一員としての自分の人生の重みを感じている。

そういうタイプの人たちは自分の "幸せ” を感じている。


僕が “Wholistic” という言葉を知ったのは、新井紀子さんが『マル激』に出ていた回を見たときでした。

本来はHolisticという綴りが正しいようですが、俗語として使われているWholisticの方が "Whole” の意味合いが強調されて好きなので僕はそっちを使っています。

"Whole" はおそらくご存知のように "全部・全体” という意味です。ホールケーキの “ホール” ですね。三角に切り取られた一部ではなく、焼き上がったままの丸いケーキ全体を指します。

僕はここ最近の世の中の流れが、人間を細分化し、一部分を切り取ってそこだけを味わうようになっているんじゃないかと危惧しています。


そのことで覚えているのは、10年くらい前に 「ソフレ」 という言葉が流行ったことです。
これは 「添い寝フレンド」 の略で、セフレのようなものですがセックスはせず、ただ横で一緒に寝るだけの関係性のことだそうです。
ただ僕は実際に “ソフレ” という関係性を見たことがないので、ただの都市伝説だったのかもしれません。

でも同じ頃にSkypeで 「寝落ちフレンド」 が流行っているのは実際に見たことがあります。
たぶん知ってるでしょうけど寝落ちというのは、相手と通話をつないだまま寝ることです。いうなればリモート添い寝フレンドです。
僕が知ってる限り基本的には男女がやるもので、そこからエロイプ (リモートでするエロいこと) に発展することもあるようでした。

僕はこれを間近で見ていて 「嫌いだわこの文化」 と思っていました。
「イチャイチャしやがって」 という嫉妬の感情もあったかもしれませんが、それよりも気になったのは 「寝落ちフレンド募集」 についてです。

当時はSkypeでネット友達をつくろうとする人がたくさんいて、掲示板に自己紹介と一緒に自分のIDを貼り付けたりしてたのですが、そこに 「寝落ちフレンド募集」 の投稿をよく見かけたんです。

たとえばこんな投稿です。
「寝落ち 優しい高めの声の男の人募集」
「当方♂です、声は低めと言われます、寝落ちしませんか?」
こういうのを見ていて僕はとてもイライラしていました。

なぜかというと 「寝落ちという目的のために、自分が求める声の相手を募集する」 というその行為が、人間というホールケーキを頼んでおいて、ただ一部だけをつまみ食いして残りを捨てるような冒涜に思えたからです。

それはまるで営利企業が人材を募集しているようでもあり、経済活動の場ならまだしも、単なる友達づくりのような場で、そういう需要と供給の取引のようなことが行われていることをグロテスクだとさえ感じました。

最初に自分の目的 (需要) があって、
それを供給できる相手を探し、
互いの条件があえば関係が成立する。

それに対して僕は 「人間関係ってのはそういうもんじゃないだろ!もっとこう、たまたま出会って、同じ空間にいあわせたんだから、まぁどうにかうまくやっていきましょうや」 みたいなものだろう!と感じていました。

でもいま現在、そういう感覚の人はどんどん少なくなっているような気がしていて。それが恐ろしく、そしてもったいないなと思うので、僕が思う "Wholisticな人間関係の在り方” について書き残しておこうと思いました。


僕が 「添い寝フレンド」 や 「寝落ち通話募集」 にイライラしていたのはなぜなのか?

社会学をかじった僕の自己分析では、僕は 「農村的な地縁社会の感覚」 を持っていて、それが 「都市的な無縁社会の感覚」 と相容れないものだったから、苛立ちを感じたのだと思います。

僕はずっと新潟県の新発田市で暮らしていましたが、小学生の頃は家の周りは田んぼだらけで、放課後などは近所の年の違う子どもたち6~7人のグループで、鬼ごっこをしたり虫取りをしたりして遊んでいました。

その頃の感覚でいうと 「先に目的があり・それに適した人を集める」 というのは友達の在り方としてとても不自然で、むしろ 「先に友達がいて・それに適した遊びや目的が生みだされる」 という方が自然に感じます。

具体的にいうと、僕たちは 「鬼ごっこをしたいから、走るのが好きな人友達になろうよ」 といって友達になったわけではありません。ただ同じ地域にいたらいつの間にか友達になっていただけです。

その友達6~7人が同じときに同じ場所にいて 「じゃあここにいるみんなでなにかやろっか?」 という流れから、鬼ごっこや虫取りといった "目的” が出てきたように思います。

もしその6~7人がぜんぜん違う人たちだったら、目的はかくれんぼやトランプになっていたかもしれない。まず最初にそうした友達の存在があって 「自分たちみんなが一番たのしめるのはなんだろう」 ということから始まり、結果的に鬼ごっこや虫取りになっただけなんじゃないかと思ってます。

だけど都市的な無縁社会というのは、そういった "地縁” がなくなった社会だといいます。僕も都心で数年暮らしたことがあるのでそれも感覚として少しはわかっているつもりです。そこには 「最初に友達がいない」 わけです。

そして都市部というのは農村部に比べて人口がとても多い。身も蓋もない言い方をすれば 「友達は選びたい放題」 なわけです。

そうすると農村の地縁社会のように、
1. たまたま隣り合った人と友達になり
2. その人と一緒にいることを前提として目的が生じる
という流れとは全然ちがって、

都市的な無縁社会では、
1. たくさんいる人の中から目的や条件で探して
2. その中で互いの需要を満たせる相手と友達になる
というのが自然な友達観になるのかもなと。

しかしその友達観は、田舎育ちの僕からするとあまりに冷たく、ビジネスライクで、まるで “人間味がない” ように感じられます。

経済活動のように合理的に、需要と供給を満たすための道具として人間関係が使われている様子は、なにかが間違っているんじゃないかと、僕の頭はそう感じてしまうわけです。

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