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呪いの傘が壊れた。

一週間前,私が中学生から使っていた"傘"が壊れた。
「傘が壊れたくらいなんだ,noteを使って報告するようなことか?」と眉を潜められそうだが,私の人生にとっては,全世界に向けて歓喜のこころもちを叫び出したいくらいの出来事なのだ。しばらくお付き合いいただきたい。

「傘を壊さないちゃんとした子」

私は,小学校2年生の時に買ってもらった傘を中学校1年生までずっと使っていた。私は典型的なおとなしい子で,7年の間に,傘を失くすことなく・折ることもなく・忘れることもなかったのだ。その間,弟は7回くらい傘を折り,そのたびに母から買い与えられた。弟の傘はいつも新しかった。
 小学校の2年生の感性で買ってもらった傘だったため,中学生が持つにしては,幼くて小さくて丸っこい傘だった。同級生はすっきりとした傘をもっていたため,いつも羨ましかった。中学生にもなったら,自分で傘を買えばいいではないかと思う人もいるだろうが,私は両親からのお年玉5000円を一年間でやりくりして友人との付き合いをしなければならず,使える傘がある中で購入するのは,ハードルが高かった。
 
 中学2年生になった時,きっかけは忘れてしまったが,母が結婚当初から使っていた傘を私が使うことになった。ピンク色の傘で好みではなかったが,とりあえずその傘を差した。

 この傘が,私が25歳まで使うことになる"呪いの傘”である。

 この時点でこの傘はもう結構くすんでよれていた。ただ,作りが丈夫だったことや使い手である私がものを壊さない人間であることから,長生きしたのである。弟は,中学校入学をきっかけに傘をまた買ってもらっていた。

自分で選べない。

 私が身につけるものは,思えば4つ年上のいとこの服や,母が20代のとき買い集めた服,塾の先生のお下がり,人からもらった小物ばかりだった。洋服を買ってもらったこともあったが,私が気に入ったものは一旦否定されてきたように思う。「スカートが短すぎる」「品がない」「あなたには似合わない」母は,私が小学生の頃流行っていたギャル文化に否定的だった。

 習い事も特に私がやりたいといってしていたものではない。母が良かれと思って選んできたものだった。最初は,英語は嫌いだった。そろばんも嫌いだった。水泳も本当に嫌だった。続けていたら仲間ができて,それが楽しかっただけで習っている対象そのものについて好きだと思ったことがない。習字がしたいと言ったし,ピアノがしたいとも言った。却下されて今に至る。弟はやりたいといった絵を習い,ソフトボールチームに入り,私は練習についていって,公園にいた。なんだったのだろうか。書いていて虚しくなってくる。弟は途中で絵もソフトボールもやめた。彼は自由だった。

 母がさせてくれたことは結果的にプラスになったが,あのとき,自分がやりたいことを却下されたことが今でも傷になっている。

 私は,母がいいと思うものを積極的に好んでいるように見せかけた。

 高専や大学に行ったあと,わたしが作った設計課題作品や行動についても,最初に出るのは否定の言葉だった。心配の気持ちからだったと言われればそうかもしれない。

息苦しくて,将来,養育費を全額払って縁を切ってやろうと心から思っていた。でも,そんなことを考える親不孝な自分が嫌だった。これまで両親はわたしにいくらお金をかけたのだろう。それなのに,私は両親を見捨てようとしている。

いつのまにか,自分の好きなものがよくわからなくなっていった。今日食べたいものもよくわからない。本当に建築が好きなのかもわからない。全部が惰性だった。もらった服も惰性,食事も惰性,もらったものも惰性……。

女だからという理由で

 女だから,家のことを手伝わなければならなかった。これが,弟にも課せられていたことならば,わたしはここまで怒っていなかっただろう。母が夕方からパートを始めた時,私は弟のために早く帰宅することになった。弟はもう中学生で,米を研いで炊飯器のスイッチを押したり,もう完成している夕食を温め直したりすることはできたはずだ。それなのに,私は部活や委員会を早く切り上げて帰宅することを命じられていた。米を研ぐためにだ。
 家のことはすべて母がやるべきだなんて微塵も思っていない。家族全体で負うものである,
 ただ不公平だった。
 弟が免除されていて,私がやらなければならない理由はなんなのか。

 ただ,「女の子だから」と母は言った。

 女であることなんて,くそくらえだと思った。

 弟には自分の部屋があった。弟には明確な門限はなかった。

 私は,ずっと呪いの傘を使っていた。

家を出て,そして呪いを解く。

 私は大学進学を機に家を出た。地元から出てほしくないという両親の反対はあったものの,遠くの大学を受験した。在学中は様々な制度を使い,両親への「借り」を極力少なくした。私の両親は,ちゃんと学費も生活費も払ってくれた。私はまだ幸せな子どもなのかもしれない。

 家を出ても,社会人になっても,帰宅時間の報告の義務は続いた。
 私も,今日あったことなど,話さなくていいのに話して,たまに否定され,その度に傷ついた。私はずっと,母から,よく頑張ったねとか,えらいね,とか,楽しそうだね,といった類の言葉をかけてもらうことを望んでいた。私が,母がかけてほしそうな言葉をかけたように,母にもそうしてくれることを望んでいた。そんなこと,望むだけ無駄だった。人は操れないのだ。

 ちゃんと自分の意志で持ち物,することを選べなかったこと,弟と明確な差をつけられて育ったことが呪いとなり,今,私は母を恐れ,さらに周りの人からどうみられているかを恐れ,自分でなにか決定することが怖くなった。

 今,傘が壊れたこと。それは自分自身でかけている呪いを解きなさいということなのかもしれない。今まで感じてきた生きづらさ,母への思いをすべて包み込んで,自分の認識を変える。まずは,時間がかかるだろうが,お気に入りの一本を選んで,身につける。

残念ながら,折れた傘は一週間たった今でもまだ捨てられていない。捨てるのが怖いのだ。母に「えー壊したの?捨てたの?」と言われるのが怖いのだ。来週の不燃ごみの日には必ず捨てる。決めた。

傘が壊れて晴れ晴れした私に,自分でエールを送りたい。

 


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