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高校の共学化について

僕は、銀行員時代に、約2年間、浦和に住んでいたことがある。その頃に、浦和レッズのサポになった話は前に書いたかと思うが、埼玉県の公立高校は男女共学ではないということも、その頃に知った。

とはいえ、埼玉県内の公立高校のすべてが男女別学というわけではなくて、ざっと9割以上の高校は共学であり、現在12校が別学ということになっている。ただし、別学となっている高校の中には、浦和高校、浦和第一女子のような名門校が含まれており、総じて歴史と伝統があり、高偏差値の学校群=男女別学というイメージがある。

女子大でさえ、男女共学化したり、性自認が女性であるトランスジェンダーを受け入れるご時世である。埼玉県の公立高校についても、共学化へ向けた議論が活発に行なわれているようであるが、総じて急激な共学化には慎重な意見が多いという。また保護者の大半は反対意見を表明しているのだそうである。

<共学化賛成の意見には「異性とともに学ぶことが異なる価値観を理解し、自己表現を発揮できる人材育成につながる」などがあった。一方、共学化反対では「生徒と保護者から多数の支持がある別学を廃止することは、多様性を尊重する現代において矛盾する行為」などとなった。>とあるように、どちらの意見も真っ向から対立している。

そもそも、共学化について議論されるようになったきっかけとしては、<県男女共同参画苦情処理委員が令和5年8月、県教育委員会に「県立高校の共学化が早期に実現されるべきである」との勧告したことをきっかけに問題化。県教委は6年8月末までに勧告に対する報告が求められている。>という背景がある。

今回、共学化に反対する有志団体が県議会議員にアンケート調査を実施したようであるが、あの共産党でさえも、<「歴史的背景、ジェンダー平等の進展から別学を望む者もいる。急ぐことなく共学化を進めるべきだ」などとしており、早急な共学化には疑問を残した。>というのは興味深い。共産党所属の埼玉県議に、浦和高校出身者がいるのかもしれない。

私立の中高一貫の進学校の多くは、男女別学になっている。もちろん、男女共学のところもあるが、伝統的には別学が主流である。大学受験を控えた大事な時期に、異性なんぞに注意を逸らすことなく、勉学に邁進しろというのが、おそらく別学であることの趣旨であろう。

まあ、別学であっても、他校の異性とつき合うことは可能であるし、予備校や学習塾に行けば、異性との出会いはいくらでもある。山奥か離島に閉じ込めるならばともかく、現代社会において、周囲から異性を完全に追い払うことは不可能である。

となれば、あとは共学か別学かの議論というのは、異性が身近に存在することが、学業においてプラスに作用すると考えるのか、マイナスに作用すると考えるのかの二択の話ということになりそうである。

自分の高校生活を振り返ってみれば、わかることであるが、そういうのは、ホントに「人それぞれ」という感じであり、一般論を議論しても結論は出ないような気がする。

異性にあまり興味がない、奥手な生徒にとっては、どれだけ至近距離に異性がいたところで、何も起きようがない。雑念とか妄想が少しくらい増大する可能性はあるが、それは、先ほども書いたとおり、電車の中だろうが、街中を歩こうが、どこにでも異性は存在する以上、同じ教室にいるかどうかだけにフォーカスしても仕方がない。それに奥手な彼らには、たぶん何も起きない。

逆に異性との交遊関係に如才ないイケてる生徒にとっては、遠くの漁場にまで遠征しなくても、近くに漁場ができることで、活動の機会が広がることになりそうである。彼らには、もしかすると感謝されるかもしれない。

その他の大多数の生徒たち、つまり年齢相応に異性に興味はあって、いろいろと頭の中で妄想を膨らませてはいるが、具体的行動を起こせるほどの積極性は持ち合わせていない層に関しては、別学から共学になることで、甚大な影響が生じる可能性はある。

彼らは、従来、校外にまで手を広げて、異性との出会いを求めるほどの勇気も甲斐性もなかったであろうが、校内に異性が出現することで、動揺し浮足立つに違いない。となれば、勉学が疎かになる。保護者の大半は反対意見を表明しているのは、こういう連中のことを懸念しているのかもしれない。

以上のようなことを考えると、大学受験を最優先に考えるのであれば、従来どおりに男女別学の方が好ましいのだろう。わざわざ腹を空かせているライオンの檻の中に、獲物になるようなウサギを同居させる必要はないからである。

誤解のないように注釈するが、ライオン=男子、ウサギ=女子、とは限らない。その逆もまた真なりである。僕は、肉食女子も肉食男子と同じくらいの比率で存在すると思っている。健全な若い男女が、異性に興味を持つのは当たり前のことである。

洋の東西を問わず、宗教的な施設はいずこも男女を同じ場所に収容するようにはなっていない。それは、やはり異性が身近にいることで煩悩や雑念が生じてしまい、神仏に真摯に向き合うことを困難にするからである。人間の長年の知恵というものであろう。

したがって、高校を大学受験のためにもっぱら勉学に励むべき場所と考えるのであれば、できるだけ勉強に関係のないノイズは排除すべきだし、男女共学よりも男女別学の方が望ましいということになる。長年にわたり、埼玉県の公立高校、特に名門校で男女別学の伝統が守られてきたのも、そうした理由からであろう。

もっとも、大学受験というものが、そこまで万難を排して人生を賭けて取り組むに値する重要なテーマなのかとなると、それもまた「人それぞれ」という気がする。修行僧みたいに脇目もふらずに勉学に邁進して、めでたく志望大学に合格を果たしたとしても、その後、バラ色の人生が待っている保証はどこにもないからである。

それに、無菌室みたいな高校生活を送ったがためにまるで免疫力がなく、大学に入学した途端、ロクでもない異性に簡単に騙されて、奈落の底に転落する可能性だってある。多少はいろいろな経験をして、そこそこ耐性を身につけておいた方が、長い目で見れば、有益なのかもしれない。

それはさておき、もはや、有名大学への合格が幸せな人生を約束してくるほど甘くはないのは周知のことである。脇目、脇道、大いに結構。あれこれと世間知を広げていた方が、むしろ大学入学後の「伸びしろ」が期待できそうな気もする。

要するに、共学か別学かといくら議論したところで正解なんかないんだし、幸いなことに、埼玉県下に別学の公立高校が12校もあるんだから、半分くらいは共学化して、残り半分は別学のまま残しておいて、10年くらい経ってから、どちらの方が、社会人となった卒業生の成長が認められるのか検証してみてから、改めて共学か別学かの議論をしても遅くはない。

そういう意味では、10年くらいでは検証が難しいかもしれない。順調にいっても、高校3年間、大学4年間で既に計7年である。社会に出て3年かそこらくらいでは、成長したかどうかなんて、何もわからないだろう。そうなると、最低でも20年、30年くらいの期間をかけてみないと判断は難しい。

教育制度を見直すということは、それくらいに時間をかけてみないことには、軽々に判断できないことなのであろう。人生100年時代である。とりあえず定年退職するくらいの年齢にならないと、人生の総括などできないのかもしれない。

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