「かもしれない」について
静岡の「認定こども園」の通園バスに取り残された女児が熱中症で死亡する事故が起きた。
過去にも同様の死亡事故は、21年7月に福岡県中間市、20年7月に福岡県北九州市でも起きている。
原因としては、ルールは定めていたものの、思い込みや怠慢等による人為的なミスによって、ルールどおりの運用が行われていなかったことにある。
おそらく、今回の事故が起きる以前にも、「ヒヤリ・ハット」的な小さなミスは何回も起きていたのではないだろうか。
「ハインリッヒの法則」というのがあって、「1つの重大事故の背後には29の軽微な事故、その背景には300の異常(ヒヤリ・ハット)が存在する」という。大切なのは、小さなミスが起きた時に、「何事も起きなくて良かった」で片付けずに、何が問題だったのか原因を解明し、再発防止策を講じ、関係者に周知徹底することにある。そうした愚直な取り組みを怠っていると、今回のような取り返しのつかない重大事故が起きてしまう。
自動車学校に通っていた頃、「かもしれない運転」と「だろう運転」という話を聞かされたことがある。また、銀行員の頃、運送会社を担当したことがあったが、その会社の事務所には、「かもしれない運転を心がけよう」というポスターが貼ってあった。
「かもしれない運転」とは、「脇道から、人が急に飛び出してくるかもしれない」とか、「前方の車両が急停車するかもしれない」とか、「交差点で、右折車両が強引に曲がってくるかもしれない」といった具合に、起こり得る危険を常に想定しながら運転することによって、いざという時に、危険を回避することができるというものである。「だろう運転」は、それに対して、楽観的で都合の良い予測に基づいて運転することを意味する。
今回も、マニュアルで定めたルールでは何重にもチェック機能が働く仕組みが講じられていたようであるが、いくら立派なルールを定めても、結局のところ、担い手である人間が、それぞれのルールの意味を正しく理解した上で、正しい運用をしないと意味がない。「自分が見落としても、他の誰かがチェックするだろう」とお互いに思い込んで、漫然と仕事をやっていたのではないだろうか。ルーティンワークというのは、慣れてくると、ついつい漫然と流しがちであるが、リスクはそういうところに潜んでいるものである。
銀行でも、「だろう処理は事故のもと」と新入社員研修で教わる。「大丈夫だろう」という過信が事故を生むという意味である。「たぶん」「おそらく」「だろう」といった言葉は、実務においては禁句と考えるべきである。
「昨日までは無事だったかもしれないけど、今日は何か良くないことが起きるかもしれない」と考えつつ、謙虚に、あるいは悲観的に備える心構えが全員に周知徹底されていれば、事故をゼロにすることはできないが、少なくとも人為的な事故のかなりの部分は防止できるのではないか。
そもそも、運転手が休暇中とはいえ、高齢かつ不慣れな理事長が通園バスの運転を引き受けて、周囲も何も言わないあたりにも、何やら問題がありそうである。そうした安全管理全般に対する意識が変わらない限り、いくら父兄の前で頭を下げたところで、何の解決にもならないと思う。