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「イズム」について

「イズム」という言葉がある。いわゆる「主義、主張、学説」のことであり、「イズムを異にする」「イズムにとらわれる」なんて使われ方をする。

それぞれの人には、「こだわり」のツボもしくはポイントのようなものがある。他人にとってはあまり説得力を持たない、当人しか理解できないような独特の「こだわり」もある。

そうした自身の「こだわり」を他人に対しても譲らず主張する人を、「イズムが強い人」という言い方をすることがある。たいていの場合、決して良い意味ではなくて、否定的な意味であることが多い。

なんでも他人に同調させる必要はないし、人それぞれ考え方や価値観は自由であって一向に差し支えない。

ただし、仕事などの場で、他人と一緒に何かをやる場合に、自身の「イズム」を貫こうとすると、他人と摩擦が起きることがある。そういう場合に、自身の「イズム」をどこまで主張するかという点に関しては、少し注意を払う必要がある。

人それぞれ考え方や価値観は自由であると言ったが、それは自分だけではなく他人も同様である。

「イズム」と「イズム」が対立した場合、どうするのか。基本的にはお話し合いをするしかない。どちらの「イズム」がより理にかなっているか、仕事をより効率的に進めることができるのかについて議論し、何らかの対応策を導き出すことができるのが、「オトナの対応」ということになる。

基本的には、どちらかの「イズム」を選択するか、双方の「イズム」を調整して折衷案を考えるといったことが考えられる。

そういう場合に、頑なに自身の「イズム」を主張し、それを貫こうとするのは、「オトナの対応」とは言えず、「お子さま」の甘えと言われても仕方がない。

それでも、代わりの利かないスキルや能力を持っていれば、それでも大丈夫かもしれない。周囲が折れてくれて、自身の「イズム」を受け容れてくれるからである。そうでない人は、一匹狼として生きていくしかない。フリーランスだとだんだんと仕事がなくなるかもしれない。

自身の「イズム」を主張することが、自分らしさの尊重、個性を大切にすることと同義であると思い込んでいる人がたまにいる。そういう人は、自身の「イズム」を押さえつけられることは、自身を否定されたととらえるので、感情的な反応をする。

たぶん、こういうタイプの人は、壊れやすい自尊心の持ち主なのだと思う。ホントのところは、あまり自信が持てない。自分でもそれをわかっているので、ハリネズミのように必要以上に身構えてしまう。他人からすれば些細なことであっても、そこを譲ると決壊するような気がするから譲れない。

公共の場で、マスクをつけるつけないで揉めている人をいまだに目にすることがある。あれなども、自身のどうでもいいような「イズム」へのこだわりなのであろう。

マスクに科学的な効果がどこまであるのか、実際のところ、よくわからない。それでも、半分はエチケットのようなものだと思って、人混みや公共交通機関に乗るときにはマスクを装着する。

ホントはマスクなんて意味ないと思っていても、他人と摩擦を起こすだけ無駄な労力だから、敢えて「イズム」を主張しない。そういう場面で「イズム」を引っ込めたところで、自身の価値は毀損しない。自尊心も傷つかない。そう考えるのが、「オトナの対応」を取る人たちである。

ただし冒頭にも書いたが、人それぞれ考え方や価値観は自由である。なんでも他人に迎合する必要はない。むしろ、譲れないところは譲ってはいけない。

譲っても自身の尊厳に些かも影響のないところと、そうではなくて、絶対に譲ってはいけないところの境界線がきちんと自分自身で理解できているのかどうか。徹底的に「イズム」を貫かなければならない真のこだわりポイントをブレずに持てているかどうか。そこが重要なんだと思う。

そういう意味では、先ほどのマスク云々などは本来こだわるべきポイントではない。大のオトナが、そういうしょうもないところで、「イズム」の安売りをするべきではない。

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