「ギフテッド」について
ザ・ローリング・ストーンズの結成当初のリーダーだったブライアン・ジョーンズは、幼いころから音楽的な才能に恵まれ、どんな楽器でも触れただけで演奏をマスターできたという。知能指数も非常に高かったらしい。
特異な才能を持ち「ギフテッド」と呼ばれる子どもがいる。何でも横並びが好きな日本の公教育では、こういう子どもは学校に馴染めず、居場所を失って、不登校になったりする。ブライアン・ジョーンズも「ギフテッド」だったのだろう。
日本の公立学校の先生は、平均的な子どもを相手にするのは得意なのかもしれないが、平均値を下回る子どもを引き上げる以上に、飛び抜けて優れた子どもの取り扱いもあまり得意ではないようだ。そもそも、そうした「イレギュラー対応」は教わっていないのだろう。
子どもは1人1人、個性があるし、能力差がある。一律ではない。それは明らかである。したがって、科目ごとの能力別クラスで教育するのが双方にとって効率的であるのは明らかである。でも、そういうことはやらない。海外だと当たり前だと思うのだが。
いわく、「できない子どもが、かわいそう」「差別を助長する」といった話になる。野球であれば、上手下手に基づいて、レギュラーや控えに選別することに違和感はない。走るのが速い子どもと、遅い子どもが一緒に練習するのも非効率である。音楽なんかも同様。どうして学業で同じ理屈が通らないのか。不思議である。オトナたちが、学業の優劣を、人としての優劣と同等に見ていることの証左ではないかと勘繰りたくなる。
飛び級もない代わりに、落第もない。少なくとも、日本の義務教育では、そういうのはあまり聞いたことがない。ドイツ在住の知人の話だと、かの国では、小学校でも落第があるらしい。
特別に高い能力を持った子どもが、平均的な子どもたちと一緒に勉強するのは、わかりきったことを何度もやらされて退屈であるのみならず、苦痛でさえあるだろう。こういうのも一種の虐待かもしれない。飛び級制度があれば、こういう子どもは救済されるが、そういうことは絶対にやらない。
先生たちは、ずば抜けて優秀な子どもを嫌いなのではないかと思うような事象もある。知人の子どもは算数・数学がきわめて得意なのであるが、授業中、先生の不正確な説明や間違いを再三指摘することに先生が腹を立て、その子の授業中の発言を禁じただけでなく、協調性がなく授業の進行を妨げる問題児というレッテルを貼り、通知表にひどく辛い評点をつけたという話を聞いたことがある。こんな教師がいたら、子どもは学校に通うのがイヤになるだろう。
義務教育というのは、教育機会を平等に与えることであって、結果も平等であることは意味しない。結果は結果。到達度合いを厳格に評価して、期待する水準に達していなければ合格点は与えない。当たり前のことである。逆もまた然りである。
子どもは1人1人違っているのが当たり前である。得意もあれば不得意もある。それを、まるで鋳型に合わせるような一律的な教育を行なって、平均に達しない子どもを引き上げる努力もせず、平均を上回る子どもの優れたところを伸ばしもせず、平均的な子どもしか見えてないような教師に学校教育を任せていては、この国の将来は危うい。
「右向け右」と命令されたら右を向くような従順な兵士を育てることは、富国強兵時代に国益にかなったのと同様に、高度成長期までであれば、可もなく不可もない標準的なサラリーマンを育てることが国の成長を支えたのかもしれないが、いまどき、そんな凡庸な人間ばかり育てても、AIに代替されるばかりである。
多少の凸凹というか、得手不得手はあっても、特定の分野で尖がった存在感を発揮できるような人材こそ必要であろう。そう考えれば、教育のあり方も現状とは随分と変わってこないことには対応できない。そもそも、教師自体、現状のレベルの人材で良いのか否かといった議論も必要かもしれない。
僕の中高生時代を振り返っても、教師志望の同級生というのは、あまりパッとしない地味な連中ばかりだった。もちろんアホではないにしても、誰が見ても優秀な生徒たちが教師をめざすのは稀であった。まさに平均的な偏差値50くらいの生徒がめざす職業。それが教職であった。
世の中の教職従事者を敵に回すことを覚悟で言わせてもらえば、平凡な教師は平凡な生徒を好む。自分よりも優秀な生徒は自分を脅かすからである。ちょうど、企業の人事部の採用担当者が自分よりも優秀な人材を採用しない(できない)のと似ている。
そう考えると、国の将来を憂うならば、まずは優秀な人材が教職をめざすように、教職を魅力ある職業にするしかない。処遇を改善する。給与水準を引き上げる。部活の顧問とか、しょうもない仕事による拘束時間を削減する。教職としての本来業務以外の庶務事項や雑用もすべて排除する。モンスターペアレントの対応は苦情対応の専従者かスクールロイヤーに任せる。
あとは、子どもたちは1人1人能力差があるのを前提に、全教科、能力別クラスを基本として、飛び級も落第もアリというように方向転換を図る。これは世の中全体として方向転換を図る。先ほども書いたとおり、教育機会は平等に与えるべきであるが、結果は必ずしも平等である必要はない。そんなことは当たり前。それを差別とか言うのは、差別という言葉の意味を理解していない輩である。
教育というものは、「選別」の場でもある。あるいは適性に基づく「振り分け」の工程でもある。そういう現実を曖昧なままにしておいて、いきなり社会に出る直前、就活の段階になって、世の中の現実を知らされることを思えば、早い段階から慣れておいた方が良い。そうすれば、不向きなことはホドホドにして、自分に向いていそうなことで勝負しようという戦略的な発想も身につく。
そういうことなので、「ギフテッド」の子どもが飛び級して、小学生が大学教育を受けたところで、僕は何も驚かない。能力が備わっているならば、是非、そうするべきである。ただし、全種目で大学生と同等の能力を有しているとは限らない。数学は天才的でも、他の科目は普通かもしれない。そういう子どもは、数学だけ大学生と一緒に勉強して、他の科目は同い年の子どもたちと勉強すれば良い。その辺は実態に合わせて、融通無碍な対応をすれば済むことである。
世の中として、絶対に避けてもらいたいのは、「ギフテッド」を型にはめて、スポイルしてしまうことである。教師が手に負えないというだけの理由で、せっかくの才能を伸ばす努力もせず放置したり、見て見ぬふりをしたり、足を引っ張ったりするのは大いなる損失である。
もしも、普通の学校の先生にそこまで期待するのは酷であるということであれば、「ギフテッド」だけを集めた特別クラスの設置も必要かもしれない。日本にも昔はそういう制度があったと聞いたことがある。筒井康隆は「特別科学学級」に所属していたことがあるという。同じような子どもたちを集めれば、少なくとも普通の学校で取り扱いに手を焼いて、厄介者扱いされることは避けられる。
その後、順調に才能を開花させるか、「二十歳すぎれば、タダの人」になるかは、人それぞれである。この点においても、教育機会は平等に与えるべきであるが、結果は必ずしも平等である必要はない。
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