見出し画像

池波正太郎について

前の記事で司馬遼太郎について書いたので、司馬と同じく23年に生誕100年を迎える池波正太郎についても書いておきたい。

司馬遼太郎に関する記事は、司馬ファンにとっては不愉快なことしか書いていなかったように思う。でも、ちゃんと読んでもらえるとわかるように、僕も若い頃は司馬作品を愛読していたのだ。年を取ると、だんだんと趣味に合わなくなったというだけの話である。

逆に池波正太郎の作品に関しては、30代の半ば頃、自分自身でも「オッサンになったな」と感じるようになった頃に出会った。

最初にハマった作品は、「剣客商売」シリーズである。

主人公の秋山小兵衛は、かつては四谷で道場を構えていたこともある無外流の剣術の達人であるが、現在は孫くらいに年齢差のある後妻と鐘ヶ淵(現在の墨田区)でお気楽な隠居生活を送っている。シリーズ自体は小兵衛が59歳から75歳くらいまでの話が描かれている。

小兵衛のライフスタイルとか生活信条というのが、とにかく融通無碍であり、型にはまらないところがとても良い。若い下女に手をつけて後妻にするくらいだから、まだまだ枯れてはいないし、何事に関しても好奇心旺盛で、遊び心に溢れている。美味しいもの、美味しい酒には目がない。カネ払いもケチ臭くないし、身分の上下に関係なく人との交わりにも如才ないので、自然といろいろな人たちが小兵衛を慕って周囲に集まって来る。

隠居老人だからと言って、ぶらぶらと日々を無為に過ごしているわけではなくて、周囲から相談を持ちかけられたり、あるいは自分から首を突っ込んだりしつつ、問題を解決したり、悪人を懲らしめたりと、結構、世のため人のために働いているので、ますます周囲から頼りにされるようになる。高齢者の余生の過ごし方の1つの理想的なロールモデルであろう。

町道場の経営者であった小兵衛にとって、太平の世では剣術も金儲けの手段ということになるが、息子の大治郎はまだ年若いこともあって、そこまで割り切ることができない。それでも、父親の小兵衛の生き方に間近で接するうちに、だんだんと角が取れてきて、なかなか粋なところもある懐の深い人物に成長していく。

たぶん、僕が30代の半ば頃にこの「剣客商売」シリーズに惹かれたのは、それまでの大治郎的なポジションから脱却して、小兵衛のようにTPOに応じて硬軟両方の使い分けができるような、より柔軟性を求められる年齢になっていたことと無関係ではないと、今ならば思う。もちろん、当時はそんなことはまるで意識しておらず、単に面白さに夢中になって全巻読破しただけのことであった。

次に出会った池波作品は、「鬼平」シリーズである。こちらは、中間管理職として部下を抱える立場になって、いろいろと悩み多い時期と重なる。

「鬼平」こと長谷川平蔵は実在の人物である。若い頃は放蕩無頼の生活を送っていたとされている。現場のリーダーとしては部下を適材適所で巧みに配置して集団捜査で盗賊を追い詰めていく。

凶悪な犯罪者たちからは「鬼の平蔵」と怖れられるが、部下である同心や密偵たちにとっては情が厚く頼りになる上司であり、市井の庶民に対する心配りも細やかである。また犯罪者であってもやむにやまれぬ事情で罪を犯した者や、「殺さず、犯さず、貧しき者からは盗らず」の「盗賊としての掟」を守る本格派に対しては、寛容で情け深い配慮を見せることもある。犯罪者の更生施設である石川島の人足寄場の創設に貢献したことでも知られる。

鬼平シリーズで印象的なのは、「人間というのは妙な生きものよ。悪いことをしながら善いことをし、善いことをしながら悪事を働く」という平蔵のつぶやきである。人間というものは矛盾に満ちた生き物であることを十分に理解した上で、「人間とはそういうものだ」と全肯定している。単なる勧善懲悪の物語にはなっていないところに、このシリーズの奥深さがある。

ちなみに実在の長谷川平蔵宣以は、父親の長谷川宣雄や、息子の長谷川宣義ほどは出世していない。有能な官吏で京都西町奉行にまでなった父親はともかく、遊び好きの放蕩息子(史実は知らない)の辰蔵の方が出世したというのも面白い。世の中、案外、そんなものであろう。

「剣客商売」「鬼平」の各シリーズに比べると、「藤枝梅安」シリーズは、僕にはいちばん馴染みが薄い。それでも、腕の良い鍼医者として貴賎の別なく治療を施す一方で、裏稼業として金で殺しを請け負う仕掛人でもある藤枝梅安は、存在そのものが矛盾に満ちている。平蔵のつぶやきではないが、「悪いことをしながら善いことをし、善いことをしながら悪事を働く」を体現していると言える。

池波正太郎は、司馬遼太郎と違って、くどくどと講釈は垂れない。そういうのは野暮だということを、江戸っ子の池波は承知しているのであろう。

あくまで大衆向けの娯楽小説という枠組みからはみ出ることもなく、時代の変遷にも耐え、古臭くなることもなく、死後30年以上を経過しても、なお読み継がれているのは、普遍的な価値があるからであろう。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?