「私の履歴書」について(続編)
今年もとうとう今日1日で終わりである。12月の初めに「私の履歴書」についての記事を書いた。
その際、アーティスト系、つまり画家、作家、音楽家、デザイナー、漫画家、役者や舞台人、それに学者・研究者といった人たち、およびスポーツ関係者の連載は面白いが、財界人の連載は面白くないという意味のことを書いた。
財界人でも創業者は変人が多いから面白い。創業者というのは、むしろアーティスト枠みたいなものである。それに比べると、サラリーマン経営者とか官僚出身者はちっとも面白くない。したがって、アーティスト枠(創業経営者を含む)の人物の連載は「当たり」、サラリーマン経営者や官僚出身者は「外れ」と見なすということも書いた。
12月の「私の履歴書」は、指揮者リッカルド・ムーティの連載であった。上記の話でいくと、12月は「当たり」の月であったのだが、実際、ムーティの連載はとても面白くて、毎日の連載を楽しく読ませてもらった。今日で最終回を迎えたのが残念である。
ムーティは見るからに生真面目そうな人物であるが、今回の連載でも、やはり本当に真摯に音楽(および作曲家)に対して向き合っていることを再確認することができた。
今日の最終回にも、<私の今までの人生は勉強の連続だった。毎日数時間はピアノに向かい、譜読みを繰り返してきた。知識を広めるための読書も欠かせない。>と書かれていた。81歳の世界的巨匠が、こういう話をごく当たり前のようにサラッと書いているのだ。「努力しなくても俺はすごいんだ」などと威張ることもせず、ことさらに大物ぶることもせず、日々、地道に努力するのを当然のことと考え、実際にそうやって生きてきたからこその話であろう。
以前に、イタイ・タルガム著『偉大な指揮者に学ぶ 無知のリーダーシップ』という本で、オーケストラの指揮者について、リーダーシップ論の観点から論じているのを紹介した。その本の中では、リッカルド・ムーティとカルロス・クライバーが、対極的な指揮者として取り上げられていた。
この本で、クライバーがオーケストラの楽団員にも常に自分の頭で考え、解釈に加わるように求めるのに対して、ムーティは、トップダウン型のリーダーであり、指揮者は作曲家の代弁者として唯一無二の権限を持つ存在として、まるで常に取締役会の厳しい目にさらされ、取締役会を満足させようとあからさまに努力する企業経営者のように振舞っていると書かれていた。
たしかに、ムーティを見ているとそういう感じである。企業経営者にとっての取締役会あるいはそのさらに上位に位置する株主とは、ムーティにとっての作曲家なのであろう。
「私はモーツァルトに対する責任がある」とムーティは言ったとか。モーツァルト、ベートーヴェン、あるいはヴェルディといった、彼が尊敬する作曲家たちが意図したとおりの音楽を再現すべく、オケの楽団員、オペラであれば多くの歌手たちも含めた関係者全員に対して確信をもって断固たる指示を出すことができるように、己を過信せず常に謙虚な姿勢で必死で取り組んでいる姿が、<取締役会の厳しい目にさらされ、取締役会を満足させようとあからさまに努力する企業経営者>のように周囲からは見えてしまうのであろう。
クソ真面目で適当に手を抜くことができない人物にありがちな、一種の強迫性障害なのかもしれないし、部下を信じて任せることが苦手で、細かいことまで口出しせずにはいられず、いわゆるマイクロマネジメントに陥ってしまった結果、部下のやる気まで削いでしまうタイプなのかもしれない。
歌劇場では過去の伝統や慣習に基づく作品の改変や省略が少なからず存在するのだが、<私は初めてのオペラ指揮以来ずっと作曲家が書いた原型や台本を尊重することを念頭に歩み続けている。演奏されずに忘れられてしまったページを読み返しては、なぜカットされたのか考え、復活させるよう努めてきた。>とあるように、ムーティは歌劇場に沁みついた前例や伝統にとらわれることなく、作曲家の真意により近づけるような取り組みを続けてきた。
<ロッシーニの「ウィリアム・テル」をカットなしに上演した時には6時間に及ぶ長丁場となり、抗議されてしまった。>とある。彼は、ベートーヴェンやモーツァルトの交響曲の演奏などでも、他の指揮者ならば慣習的に省略する繰り返し箇所を省略せずに演奏することが多い。自分の考え方やスタンスを頑固に貫き通すということは、周囲の保守的な考え方の人たちを敵に回すことになる。スカラ座を去った経緯なども、彼の流儀と関係あるのかもしれない。
もしかしたら、リーダーとしてはちょっと不器用なタイプなのかもしれない。若くして高い地位にまで昇りつめた人物の意外な側面が窺われるようで、そういう点でも今回の連載は興味深かった。
ハーシー&ブランチャードの「シチュエーショナル・リーダーシップ理論( SL理論)」にあるように、<リーダーシップの有効性は、部下の成熟(自律性)の度合いに依存する>ものであるし、「人を見て法を説け」という言葉があるように、すぐれたリーダーというのは、目の前の部下の現状のレベルや成長具合を見きわめながら、リーダーとしての自身のマネジメント・スタイルを臨機応変に変えられる人である。
言い換えれば、すべての状況、すべての組織に通用するようなリーダーシップのスタイルというものは、そもそも存在しないということである。
最近のムーティを見ていると、若い頃に比べると、表情も穏やかになり、角が取れてきたようにも思える。また、若い世代の音楽家の育成に対して、たいへんな熱意と体力をかけて取り組んでいることに関しては素直に感銘を受けた。
心臓にペースメーカーを埋めているそうだし、あと何年、現役として活躍できるかわからないが、年齢的にも今が最も円熟した芸を見せてくれる時期なのかもしれない。
ちなみに、イタイ・タルガムの本では対極的なタイプとして描かれていたムーティとクライバーであるが、長年にわたり深い交誼で結ばれていたことが、今回の連載でも描かれていた。クライバーは損得ずくで近づくような人間には極度の警戒心を抱くタイプであると聞いたことがあるし、他人と打ち解けることが滅多にない孤高の天才と言われていた人物である。そんな気難しい人物に、ムーティはよほど信頼されていたようである。対極的なタイプのように見えても、音楽に対して妥協しない点で、実は互いに通じ合うものがあったのかもしれない。
ところで、来月1月の「私の履歴書」は、野村ホールディングス名誉顧問の古賀信行なる人物だそうである。したがって、1月は「外れ」の月ということになる。