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「現状維持力」について
われわれ日本人は、「ウーバー」と聞くと、「フード・デリバリー」サービスのことを連想してしまうが、もともとは「ライドシェア」サービスを運営する会社である。
日本でも、ホントはライドシェア事業をやりたかったのだろうが、日本の法律では、「白タク」が禁止されているし、既得権益を侵害されるタクシー業界が猛反対しているし、ちょっと無理そうだなと判断したのだろう。
似たような例は他にもある。
「オンライン診療」だって、既に「当たり前」のサービスとして普及している国もたくさんあるが、日本ではまだまだ抵抗勢力が根強い。日本では、医師会 - 族議員 - 厚労省のトライアングルが、とりあえずは新しいものには拒否反応を示すからである。コロナ渦の影響もあって、ちょっとはマシになったものの、まだキワモノ扱いであるし、時計を逆戻ししたいと考える人たちは少なくない。
こんなふうになる背景としては、法律というものに対する考え方の違いがある。
<「本来あるべき社会の姿と法律の間にギャップがあるとき、諸外国は法律を変えようとなるが、日本は違法=悪い。法律を変える流れにならない」。そういう国民文化を変えることこそ肝心だと訴える。>
「あるべき姿」「もっと便利な状態」を実現するために、既存のルールが不都合だったら、「変えればいいじゃん」と思うか、「悪法もまた法なり」ということで、そこで思考停止するかの違いと言ってもよい。
あるいは、あれこれとお上が箸の上げ下ろしまで指図してくれる状態を良しと考えるのか、最低限守るべきルール以外は自由放任の状態を良しと考えるかの違いと言い換えてもよい。
日本の場合は、今も昔も、「由らしむべし知らしむべからず」というか、愚かな国民が間違った方向に向かわぬように指導するのが、政治家や役人の仕事なので、国民は指図されたことに従っておればよいというスタイルなのかもしれない。
法律とはいえ、所詮は人間が決めたものである。「道路運送法」で「白タク」行為を禁止した当時と、現在とでは、まるで世の中の状況は変わっている。社会環境が変われば、ルールも見直しするのは当たり前のことである。にもかかわらず、ルールにしばられてしまって、却って不自由になっているとすれば、本末転倒であろう。
<日本はよりよい環境を追う意欲が弱く、社会の「現状維持力」が妙に強いのではないか。>
「現状」を所与の前提と考えるのか、「現状」は変えるべきものと考えるのか。この違いは大きい。
「電動キックボード」に関しては、23年7月1日に改正道路交通法が適用されて、特定小型原付という新しい区分が作られ、特定小型原付扱いの電動キックボードは、16歳以上であれば運転免許証不要であり、ヘルメットの着用は努力義務ということになった。これなどは、「現状」を動かした1つの好事例かもしれない。もっとも、僕個人としては、「電動キックボード」は自転車以上に危険な乗り物だと思うのだが……。
「現状維持力」というのは、社会を安定させるために有効に機能することもあるが、変化を嫌い、既存のあり方を「聖域化」してしまい、議論そのものを封印してしまうという困った働きをすることがある。
ジャニーズ事務所の問題については、叩くネタがだいぶ出尽くしてしまったからか、今度は新たに宝塚歌劇団の問題が週刊誌をにぎわしている。
宝塚歌劇団なども、100年以上もの長い歴史を誇り、制度としては古色蒼然としたところもあるし、今どき「清く、正しく、美しく」などと、きれいごとばかり言っている時代でもないのだろうが、親会社も歌劇団も、そしてファンも、変わることを拒絶し、「聖域化」してしまっており、不都合なことは封印して、「なかったこと」にしてきた諸々の矛盾が、いままさに吹き出そうとしているのではないだろうか。
この問題については、また改めて書いてみたい。