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『ブラック・ジャック創作秘話~手塚治虫の仕事場から~』について

岡田斗司夫が、以前にYouTubeで紹介していた作品である。今まで読む機会がなかったので、今回、Amazonで思わず全巻「大人買い」して、一気に通読したのだが、岡田が面白がっていた理由がよく理解できた。

本作は、そのタイトルどおり、一時期の低迷期間を経て、「週刊少年チャンピオン」誌での「ブラック・ジャック」連載をきっかけとして、再び人気漫画家としての地位に返り咲いた手塚治虫の、主として晩年のエピソードを描いたドキュメント漫画ということになる。

本作の最大の特徴は、当時の手塚治虫を知る関係者たち(担当編集者、アシスタント、後輩漫画家、家族等)への膨大なインタビューと、そこで語られる手塚に関する諸々のエピソードを、そのまま実録風の漫画に仕立てているところにある。インタビューをした相手の人数、それに費やした時間を考えると、たいへんな労作であることがわかる。

著者は、原作が宮崎克、漫画が吉本浩二である。原作者についてはよく知らないが、漫画家の方は、「週刊モーニング」誌で連載中の「定額制夫の「こづかい万歳」〜月額2万千円の金欠ライフ〜」の作者であると聞いて納得した。画風に何やら既視感があるような感じがしたのだ。

本作において語られる、手塚に関するエピソードはいずれも破天荒というか規格外なものばかりで、手塚の天才ぶり、奇才ぶりを物語っている。

もっとも、生前の手塚自身は、天才扱いされるのをあまり好まなかったという。本作でも明らかなとおり、手塚の忙しさたるや、言語に尽くしがたいレベルで、死なないで生きているのが不思議なくらい、連日徹夜で寝るヒマもないほど仕事に明け暮れる毎日を送っていた。そこまで自分を追い込んだことのない一般人に、「天才だから」と簡単に納得されてたまるかと言いたかったのであろう。

とはいえ、手塚と同じくらいに睡眠時間を削って、漫画を描いたとしても、手塚のようになれるというものでもない。その点は明らかである。

手塚の漫画を描くスピードは驚異的であったという。普通の漫画家であれば、原稿用紙に鉛筆で下絵を描いた上にペン入れをするところ、ほとんど下絵のない状態でいきなりペン描きをしていたらしい。そこまでしなければどうにもならないくらいに大量の仕事を抱えていたということもあるが、常人が容易に真似できることではない。

手塚のアシスタント出身の石ノ森章太郎も描くのが速いので有名である。個人全集「石ノ森章太郎萬画大全集」が「1人の著者による最も多い漫画の出版の記録」としてギネス記録に認定されており、作品数(タイトル数)770、12万8,000ページに及ぶという。手塚の方も、生涯に描いた漫画の作品数(タイトル数)は約700、約15万ページと言われている。アシスタントによる分業体制が今ほどシステム化されておらず、デジタル技術も未発達な時代であったことを考えれば、いずれも超人的な生産能力である。文字どおり、命を削って漫画を描いていたわけで、この2人が揃って60歳で早死にしたことと決して無関係とは思えない。

それくらいに漫画を描くのが速かったにもかかわらず、手塚が常に締め切りに追われていたのは、依頼された仕事を一切断らず引き受けてしまう性格にもよるが、何よりも、作品のクオリティに徹底的にこだわり抜き、ギリギリまで粘りに粘って、少しでも良い作品を世に送り出したいという執念、漫画家としての意地がそうさせていたと思われる。

本作で語られるエピソードでも、「アニメ地獄」(1巻 / 第4話)は強烈である。「虫プロ」を倒産させて、一旦はアニメ業界から退いていた手塚であるが、「24時間テレビ」で放映される世界初の2時間アニメの制作という話に飛びついてしまう。当時の手塚は、漫画の連載だけでも8本抱えている状況にあった。普通ならば無理だと断るべきところだが、「世界初」と言われたら、引き受けてしまうのである。

果たして、放映まで2ヶ月を切っても、まったく何も進まず、とうとう制作担当デスクまで失踪してしまう。しかしながら、そこに至っても、遅れている作業はすべて手塚が自分で引き受けると宣言し、文字どおりの「アニメ地獄」が始まるのだ。

漫画連載とアニメ制作の掛け持ちで、手塚自身、文字どおり寝る暇もないくらいに働き続けるが、作業は遅々として進まない。それでも動画を作って、ラッシュ(試写)までこぎ付けても、少しでも仕上がりに納得できなければ、手塚は容赦なく、リテイク(撮り直し)を命じる。放映日まで1ヶ月を切っていても、そんな状況が延々と続くのだ。スタッフにとっては、まさに地獄のような日々であるが、不眠不休で誰よりも働いているのは手塚自身なのである。

そうした修羅場を潜り抜けてようやく完成した「バンダーブック」は、「24時間テレビ」中でも最高の28%の視聴率を獲得し、大成功を収めるのだが、放映後に、手塚は「全部リテイク」を命じて、本当に数ヶ月をかけて作り直してしまったという。当時はビデオ化や再放送の予定がないにもかかわらずである。自分が納得できない作品を後世に残したくないという、クリエイターとしての手塚の矜持のあらわれであろう。

雑誌に連載された漫画を単行本化するに際しても、状況さえ許せば、細かい手直しを繰り返していた。コマ単位でハサミで分解して、並べ替えて、切り貼りするような作業までやっていた。昔、宝塚市の「手塚治虫記念館」で、展示されている生原稿を見たことがあるが、たしかに、切り貼りして、ところどころ分厚くなった原稿があったのを記憶している。登場人物の顔だけを別の紙に描き直したものを重ね貼りしている原稿もあったと記憶している。表情がどうにも気に入らなかったのであろう。

少しでも良い作品を後世に残すためとあらば、時間や予算を言い訳にする選択肢は、手塚にはない。ファンにとっては、良い作品か悪い作品かの二択しかないからである。晩年になっても、大御所として崇め奉られることは潔しとせず、常に第一線の現役漫画家であり続けることにこだわり、大人げなく後輩漫画家たちにライバル心剥き出しで競争を挑み、納得のいく作品を生み出すために漫画と格闘する。漫画に殉じた60年の生涯である。

ネットもファックスもない時代、アメリカ旅行中に国際電話だけで、コマ割りと背景をアシスタントに指示して、帰国後に空港近くのホテルで缶詰めになった手塚が人物を描いて、締め切りに間に合わせたというエピソード(1巻 / 6話・7話)も嘘のような話であり、ただただ驚嘆するしかない。過去に自身が描いた作品、収集している資料類がすべて頭の中に入っていなければ、到底できないからである。

1巻から5巻まであって、いちばん面白いのは、何と言っても、1巻である。2巻から3巻は、同じエピソードを別の関係者の視点から語っているようなものもあって、少々、くどいなと思うところもないわけではない。4・5巻では、家族の視点から見た手塚が語られているエピソードがあり、こちらはなかなか感動的である。天才鬼才を家族に持つというのは、やはり他人からは理解されにくい苦労があるようである。

手塚治虫は、若くして、その後の日本の漫画文化の隆盛の基礎を完成させるような偉業を成し遂げてしまった天才であるが、そのキャリアにおいて、ずっと順風満帆な時期が続いていたわけではない。アニメ事業への参入と挫折、PTAのような訳のわからない連中からのバッシング、アンチ手塚の代名詞たる劇画文化の発達等の影響もあって、「もう手塚は終わった」と言われる低迷期も経験している。

73年に「ブラック・ジャック」の連載が、「週刊少年チャンピオン」誌でスタートしたのも、「手塚の死に水を取る」という壁村耐三編集長の意向に基づくものであったという。毎回読み切り形式であったのも、当初は、3回か4回連載してみて反応がイマイチだったら、打ち切ることも想定していたからである。結果は打ち切りどころか、後期の代表作と評価される大ヒット作となり、完全復活を果たした手塚は、晩年に至るまで再び多忙を極めることとなる。

晩年の代表作、『陽だまりの樹』、『アドルフに告ぐ』、未完となった『火の鳥』、どれも傑作揃いであるが、個人的には、『アドルフに告ぐ』が一番心に刺さっている。

ヒトラーがユダヤ人だったという話をベースに、アドルフという名前の2人の幼馴染が敵味方に分かれて争うようになり、最後の場面では、パレスチナ・ゲリラとイスラエル軍という敵対する立場で、1対1で殺し合いをすることになる。勝った方も負けた方も、どちらも幸せになることはないし、争いは果てることなく続くという、救いのない物語である。40年以上前に書かれた作品であるが、いま読み返しても、内容的にはまったく古びてはいない。というか、いま中東で起きていることは、この漫画で描かれていることそのものである。

晩年の手塚は、「丸が上手く描けない」といった身体的な衰えはあったものの、「アイディアだけは、もうバーゲンセールしてもいいぐらいある」と、最期まで貪欲なまでの創作意欲を持ち続けていた。

担当編集者は自分のところの原稿さえ仕上がれば、任務終了である。アシスタントは3交代制の24時間勤務なので、3日に1回徹夜すれば済む。手塚自身は代わりが利かないので、連日ほとんど睡眠時間も取らずに漫画を描き続けることになる。

身体が1つしか与えられなかったのが、手塚にとっては最大の不幸だったのであろう。


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