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権限と責任について

世の中の常識として、権限あるところには、責任がつきまとう。ついでに言えば、一般論として、権限を行使し得る能力がある人に対して、権限は付与されるものである。

多くのプロスポーツにおいて、審判は絶対的な権限を持つ。たとえば、サッカーにおいては、最近は、「ビデオ・アシスタント・レフェリー(VAR)」といったものも導入されてはいるが、それでもピッチ上の最終決定者は主審である。

昔は、VARなんてものは存在しなかったから、主審の判定がすべてである。したがって、「神の手ゴール」なんて怪しい判定も含めて、「それがサッカーというものだ」と考えるしかなかった。

今は、VARもある。そんなものなくても、いろいろな角度からの録画で後々検証も可能である。サッカーに限らず審判にとってはキツイ世の中になったものだと思うが、それでもサッカー界は、人間の目による判定の限界を認めた上で、最新技術によってベテラン審判の判断を補助しようという方針を打ち出している点、とても正直で誠意があると評価できる。

カタールW杯で、いわゆる「三苫の1ミリ」という際どい判定があったが、あれなどは最新技術のサポートがあったからこそ、審判団は自信をもって判定ができたと思われる。

一方の全仏オープンの加藤未唯の失格問題である。もはや旧聞に属するような話であり、その場での判定がすべてである以上、今さら判定が覆るはずもないのではあるが、それでもこの話がくすぶり続けているのは、権限者であるスーパーバイザーと審判から明快な説明がなかったからであろう。否、後で触れるように、説明はあるにはあったのだが、それがあまりに曖昧であったために却って世間が納得しなかったという方が正確であろう。

大会ディレクターのアメリ・モレスモの話では、グランドスラムのルールブックに基づいて正当な判断を下したということだが、ルールブックの記載自体が曖昧である。ルールブックでは「レフェリーは合理的に事実調査をして処分を決定する」と書いてあるにもかかわらず、ビデオ確認もせずに、「相手が泣いている」という理由だけで失格を決めたというのは、あまり合理的とは言えない。

この試合では、コート上の審判は「警告」を与えただけであり、その後も相手チームが執拗に抗議してゲームが停滞したので、途中で呼ばれた「スーパーバイザー」なる人物が「失格」処分を科したのであるが、「スーパーバイザー」の役職にあるレミー・アゼマールなる人物は、試合の翌日、6月5日にコメントを発表している。その内容は、要約すると以下のような内容である。

・騒動が起きた時は、自分はオフィスで仕事をしていた。
・現場に呼ばれるまで、何が起きていたのか全く把握していなかった。
・試合の開催されていた14番コートで、事情を聴かされて、試合を円滑に運営するために、早急に何かしらの判断を迫られることになった。
・加藤選手の行為に悪意はなかったにしろ、起きてしまった結果によって大会側は重い処分を処する場合もある。大会側が下した「失格処分」は妥当であった。

これでは、どうして失格処分にしたのかについての肝心な判断根拠が何もないのと同じである。

大きな金額の賞金が動くプロスポーツである以上、一部の人間の恣意的な判断で人生を左右されてたまるかというのが、参加者である選手側の本音であろうし、だから多くの選手たちから運営側に対して批判的な意見が多数出されたのであろう。

紳士淑女のスポーツだから、人にボールをぶつけた時点でアウトなんだよということであれば、ルールブックにそう書いておくべきである。

あるいは、ボールガールを7、8分以上泣かせたことが許しがたいのであれば、ボールガールを〇分以上泣かせたらアウトと明記すべきであろう。もっともそうなると、タフなボールガールならばどうなんだとか、ボールが当たっても蚊が止まったほどにも感じないマッチョな男性のみを雇えとか、いろいろツッコミが入りそうであるが。

冒頭の繰り返しのような話になるが、権限には責任が伴う。権限を行使し得る能力がある人に対して、権限は付与されるべきである。別の言い方をするならば、責任を負える能力がある人でなければ、権限を持たせるべきではない。

サッカー界は、最新技術も駆使して、業界として責任を負う覚悟で取り組んでいると言える。もはや、「神の手」は起きないであろう。一方で、テニス界からは、そういう姿勢がうかがえない。だから、世間は今回の事件に対してイラ立ちを感じるのであろう。

言い換えれば、サッカー界は、興行側も審判団もプロであるのに対して、テニス界は、選手はプロであったとしても、興行側も審判団もプロになる覚悟も能力も持ち合わせていない単なるアマチュアだったということであろう。


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