句読点をつけない若者たちについて
昨日、ネットで某サイトの記事を読んでいて、軽い衝撃を受けた。
いまどきの若者たちは、LINEで句読点を使わないのだそうだ。単に使わないのではなく、敢えて使わない。
僕のところに過去に送られて来たLINEを改めて見返してみた。
ウチの子どもたちは、たしかに句読点は使っていない。それも一切ない。ウチの家内を含めて、女性たちは(年齢層に関係なく、いわゆるおばさんたちも含めて)総じて句読点は使っていない。一方、僕を含めたおじさんたちは、当然のごとく句読点を使っている。文章も長めだ。
知らなかった。
というか、どうして今まで気づかなかったのだろうか。
いまどきの若者たちは句読点を使わないだけではなくて、句読点のついた文章そのものに好印象を持たないのだという。その理由として、文筆家の御田寺圭さんは、「若者は、句読点がある“文書”を目にすると、自分の責任を追及されているような、詰問に近いニュアンスを感じ取り嫌う」と書いている。
句読点と責任追及がどうして結びつくのか。そのあたりの若者たちの感覚は、年配者には理解しにくい。
ITライターの鈴木 朋子さんによれば、「長らくスマートフォンでテキストチャットをしてきた若者は、それに合った「打ち言葉」というスタイルを確立」しており、会話のスピード感を重視するために、読点(、)を打つ代わりに送信ボタンを押し、句点(。)は省略する。また書き言葉に盛り込み切れない感情表現を、LINEの「スタンプ」を使ってうまく補助しようとしているという。
つまり、句読点を使わないことに関しては、単なる感覚の問題だけではなくて、若者たちなりの合理的な理由が、ちゃんとあるということなのである。逆に言えば、そうした文脈を理解せずに、堅苦しい書き言葉で長々とした文章を書き連ね、もちろん句読点も使い、そのくせ、絵文字・顔文字まで見よう見まねで使っている大人たちの文章に対して違和感や嫌悪感を覚え、「おじさんLINE」と呼んで馬鹿にしていたことにも、理由があるということになる。
こうした若者たちの言葉遣いを、「間違っている」「正しくない」「日本語が乱れる」と批判するのは簡単なことである。然しながら、我々が日常的に使っている言葉は、昔からずっと、絶えず変化しながら現在に至る。書き言葉に関しても同様である。明治時代になって、それまでの文語文から、原文一致運動によって、口語体が生まれたわけであるが、それ以降も、「ら抜き」であったり「さ入れ」であったりと、それらが規範的か否かと議論しているうちに、知らず知らず、かなり一般的に使われるようになったものもある。句読点だって、明治以降に西洋の文章の真似をして使われるようになったものであり、それ以前には存在しなかったという。
そうなると、若者たちの句読点抜き「打ち言葉」というのも、もしかすると、あと何年か何十年かすれば、結構、当たり前のように使われている可能性は十分にありそうな気もする。それに、「おじさんLINE」は、我々おじさんたちが、絶滅してしまえば、いずれは使い手がいなくなるではないか。
それに、「相手との関係が終わる」という意味が含まれからという謎の理由によって、 年賀状、お祝い事の文書、結婚式等の招待状、賞状、証書、挨拶状、感謝状などでは、句読点を使わないではないか。
僕自身は、LINEとかメールと、普通の文章とで、文体を使い分けるほど器用でもないし、そういうのは個人的にもあまり好まない。したがって、引き続き「おじさんLINE」と揶揄されようと、句読点を使って、自分の考えるところの「妥当な日本語」(それとて、いつまで妥当かはわからないが)を使い続けたいと考えている。だからと言って、若者たちに同じことを強要するつもりはない、単なる、個人の趣味の問題である。
ついでに言えば、絵文字・顔文字、スタンプというものも、好まないので(使い方もわからないし)、今までも使わなかったし、今後も基本的には使うつもりはない。こちらも、個人の趣味の問題である。