柔道とJUDOについて
僕は、あまりオリンピック競技には関心がない。テレビや新聞で報道していれば見るには見るが、単にそれだけである。
東京オリンピック開催に関わる談合問題に言及するまでもなく、現代のオリンピックは大きなおカネが動く「利権ビジネス」であるにもかかわらず、いまだ「アマチュアリズム」の美名によって中途半端にカムフラージュしつつ、「美談」「綺麗ごと」のストーリーに仕立てようとするマスコミの姿勢がいかがわしくて好きになれない。甲子園の高校野球と同じ「匂い」がするのだ。この点、サッカーのW杯であれば、最初からプロ同士の対決であり、つまらぬ「偽装工作」とは無用であるだけに却ってすがすがしい。
そのパリ五輪の柔道で、審判の判定を巡っての騒動が起きた。柔道男子60キロ級準々決勝で、永山竜樹が絞め技による一本負けを喫した判定である。審判の「待て」で力を抜いたが、スペイン代表の相手選手は力を緩めなかった結果、そのまま意識を失ってしまったのだという。
柔道の試合で、締め技で気を失うと、一本とみなされるのだそうである。一方、日本側の言い分としては、「待てと言われた後も6秒間、絞め続けることが柔道精神に則っているのか」というものであるが、議論は平行線のままで、判定は覆らなかったという。
柔道に関しては、史上最も有名な誤審騒動が過去にも起きている。シドニー大会柔道男子100キロ超級の決勝における、篠原信一とドイエ(フランス)の対戦である。審判の判定は覆らず、篠原は金メダルを獲り損ねたのだが、この試合がきっかけとなり、ビデオ判定や審判委員(ジュリー)によるチェックが導入されるようになったが、12年後のロンドン大会では、ジュリーが判定に介入して大混乱を招いたりしているから、ビデオ判定の導入が、競技レベルの向上につながったかどうかは不明である。
柔道に限らず、人間が審判として判定をする以上、しばしば誤りは発生する。サッカーであれば、マラドーナの「神の手ゴール」が有名である。最近は、VARが導入されたことで、明らかな誤審であったり、シミュレーション行為(意図的にファウルやPKを獲りに行く行為で、南米選手の得意技)は確実に減少傾向にあるとは思うのだが、試合の流れがいちいち中断されるのは、すごく興趣が削がれる。誰が言ったか忘れたが、「誤審も含めてのサッカー」であろう。
審判の立場からすれば、中立公正で絶対的な存在として双方からリスペクトされるからこそ、重圧に耐えながらも微妙な判定を下すことができるのである。何か問題が生じるたびに、猛烈に個人攻撃されたり、後から機械に判断を覆されたりするようでは、アホらしくてやっていられない。「だったら、最初から、AIにでも審判をやらせろや」と言いたくなる。
もちろん、だからと言って、誤審を正当化するつもりはないし、今回の永山の試合の女性審判は、過去にも誤審をやらかした前科があったそうであるから、そもそも彼女は審判として、五輪の大舞台の立つに相応しい力量があったのかという問題になるのだが、それは彼女の責任ではなくて、選んだ方の責任であろう。
それよりも何よりも、日本人にとって重要なことは、柔道とは、スポーツ競技である以前に、剣道とか相撲と同様、「武道」であるということである。
つまり、「礼に始まり、礼に終わる」ものであるべきだし、「勝って驕らず、負けて腐らず」の精神を貫いてもらいたい。さらに言えば、審判の判定は神聖なものとリスペクトしてもらいたい。そんなことを外国人選手に説いても無駄であるが、少なくとも日本人選手くらいはそうした心構えを貫いてもらいたいものだと考えること自体、もはや時代錯誤であろうか。
もちろん、64年の先の東京五輪でオリンピック種目に選ばれて、「柔道」から「JUDO」になった時点で、もはや武道ではなく、単なるスポーツ競技の1つでしかないのかもしれないのだが、日本人選手くらいは、武道としての本来あるべき美学を大切にしないことには、いずれ「柔道」と「JUDO」はよく似た別の競技になってしまいそうである。否、既に今大会ではそういう兆しが随所に感じられなかったか。
武道である以上、柔道は、本来ならば、命がけの勝負でなければならない。審判が待てと言ったとしても、相手選手が力を緩めないのであれば、自分も力を緩めずに反撃すべきである。油断して気を失うというのでは、不覚悟と言われても仕方ない。武道であることを忘れてしまっていたのである。待てと言われた後に絞め続けた相手選手の柔道精神を云々する以前に、自分自身に油断がなかったか謙虚に反省すべきであろう。
そもそも、審判の判定に抗議して、判定を覆したとしても、ちっとも美しくない。それと、試合後、相手選手との握手を拒否した永山の態度も潔くない。
もちろん、競技レベル向上のため、抗議は抗議としてやってもらいたいし、今回のケースにおいて、どういう対処がベストだったのかについても、大いに議論してもらいたいが、それとメダルの色とは関係ないと思う。「一度審判員が判定を下して畳から離れたらその判定を変えることはできない」という国際柔道連盟の審判規定は遵守されるべきだからである。
以上のような文脈で考えていくと、阿部詩選手の2回戦敗退の際の立ち居振る舞いも美しくないし、潔くもない。兄妹連覇を期待されていただけに、気の毒ではあるが、勝負である以上、敗けは敗けとして、潔く認めるべきであろう。それなのに、転げまわるようにしていつまでも号泣して、次の試合の進行を妨げた挙句、コーチに抱えられるようにして会場を後にする様子は、はっきり言って、武道としての美学のカケラも感じられず、醜悪極まりないものであったし、僕は、見ていてとても不愉快な気持ちになった。
彼女の場合、残り時間が少なくなって油断をしていた一瞬を突かれたわけであるし、100%自分自身に責任がある敗け方である。永山のケースと違って、審判のジャッジには何の問題もない。文字どおりの完敗であり、一切の弁解の余地はない。弱いから敗けた。それだけである。聞き分けのない幼児のように泣き喚いたところで、何の意味もない。泣きたければ、宿舎に戻ってから、好きなだけ泣けば良い。
64年の東京五輪から今年で60年が経過して、若い日本人選手たちにとっても、柔道は武道という意識はもはやなくて、単なるJUDOなのかもしれない。だから、外人選手と同様、彼らに武道としての美学を期待するのはナンセンスなのかなとも思う。
やむを得ないことであるが、ちょっと寂しい気持ちもする。
武道の美学を忘れるのと同じくして、勝ちにこだわる余り、時として、みっともない醜態を晒す、どこかの隣国人と、我々日本人は少しずつ似てきているかもしれない。
少なくとも、永山の相手選手や審判をネット上で個人攻撃するようなやり方は、武道云々以前に、人としてのマナー違反であろう。
阿部詩の態度を非難したが、逆に阿部を2回戦で破った、ディヨラ・ケルディヨロワ(ウズベキスタン)の態度はすばらしかったと思う。阿部詩を破った時、些かも表情を変えることはなかったのだ。
彼女は、決勝で地元フランスの強豪選手をも破って、金メダルを獲得しているのだが、金メダル獲得後の会見で次のようなコメントをしていたのが、とても印象的だったし、感銘を受けた。
「彼女(阿部詩)はレジェンドで、完璧なチャンピオンです。私は試合がすべて終わるまで表情を変えたくなかったし、彼女をとても尊敬しているから、喜びたくなかったのです」と。
ケルディヨロワは、23年の世界選手権で阿部詩と対戦して、その時は一本負けで完敗している。その時から、打倒阿部を目標に猛練習を続けていたのだという。その阿部詩に勝利したのだから、嬉しくないはずはない。にもかかわらず、「勝って驕らず」の精神を貫いていたのだ。
外国人選手に、武道の精神を教えられたような気がしたのだが、いかがなものか。