『自分を知る』~いい人は致命傷~
皆さん、こんにちは。もうすっかり秋ですね。いや、冬になろうとしていますね。いかがお過ごしでしょうか。
今回は『いい人』についてお話いたします。
ずばり。
『いい人』を演じると自分を知る上で、致命傷になりかねません。
これは、私が恩師に言われた事です。
「あなたは、いい人をやるから、それが致命傷だ。」
と言われたことがあります。その通りでした。
「どうして、いい人をやるんだ?良いか悪いかは相手が決めるもんだろう。自らいい人をするからだ。で、あなたは、いい人なのか?」
「いいえ、いい人ではありません。😞」
こんな感じでした。ごもっともだったのに、このクセがなかなか抜けず、自分を知れませんでした。
このクセ、意外に多くの方が使っているのです。これは大損します。
私たちが生きている目的は、自分を知るためであり、『いい人』になったり、立派に生きたり、素晴らしい人になるためではありません。
自分を知るためなのです。ましてや、人の為に生きるとか、人の役に立つために生きる。とかではないのです。
自分の為だけに生きるのです。
この感覚をつかむのは難しいです。
私もまだまだです。ですが、少しずつそこに向かって生きられるようになってきました。
今までの私は、『いい人』ではないから、それを隠そうとして『いい人』を演じていました。
ですが、当たり前に『いい人』ではないので、疲れて終わっていました。
そもそも、本当に『いい人』は、わざわざ演じないのです。そのままで、良いことをしているのでしょう。
クセがなく、自然とやってしまうのだと思います。
私は嫌われたくなくて、『いい人』を演じていました。ですが、結局、嫌われましたし、疲れてやめました。
実際、めいや、おいにお年玉を渡す。という『いい人』は、初めからしていません。
なぜなら、毎年、渡すことになると、ケチな私は、『お年玉を渡す良いおばさん』をやろうとすると、余裕がない月収によっては、いつか必ず、
「また、お年玉の季節が来たわ。どうして渡さなきゃならないんだ!」
と文句が出てくる日が来ると分かったからあえて、初めからしませんでした。
「お正月は、お年玉を渡す。」というお決まりになると、苦痛になると分かるからです。
その年によっては、渡せないくらいの月収かも知れません。
もらう側だった若い頃は、お金の価値も分からないから、ありがたみもなく、その額を見て喜ぶだけの私がいたのです。
どうしようもない子供でした。
祖父母や、叔母が、大変な中、出してくださっていたお年玉を、金額を見て喜んだり
「今回は少ないな」とか、「多いじゃないか、ヤッター!」しかない自分でした。
ですから、「プレゼントは本当に渡したい時にする」と決めています。すると、姪たちは、普段渡さないので、毎回、
「えっ?どうして今?」
という驚いた顔をします。
自分に正直に生きたいので、『いい人、いい叔母、いい姉、いい娘』はやめました。
実際、相手には、『いい人、いい娘、いい叔母』に映ってないはずです。
ところが、自分を正直に出し、本当に渡したい時にプレゼントをすると、喜んでいただけているようで、こちらも嬉しくなります。
すると、お正月に久しぶりに会う姪たちに、『お年玉』という形で渡したくなる自分も出てきました。
「お年玉を渡せるのって嬉しいな💕」
になったから、それを実行しています。
この『いい人』を、やってしまって悔やんでいた方の話がありました。
姪や、甥が何人もいて、毎年、数万の出費だと嘆くのです。
初めから、渡してしまっていたので、もうやめられず、しかもその額は年々増えてしまうそうです。
もちろん、お年玉とは、そういうものです。
相手の年齢が高くなると小銭の種類だけで喜ぶ子供ではなくなるからです。一万円札を子供は期待してしまうのです。
私がそうでした。
その方は、年金暮らしが近くなるお年なので、生活費を削り、お年玉用に貯金していると話されていました。
なんてこったです。
「こんな状態になるなら、渡さない方がいいんじゃないんですか?」と、伝えましたが、もう引っ込みがつかないそうです。
「私は、お年玉が、苦痛になりたくないし、義務で渡すような自分になりたくなかったから、初めから、あえてしなかったんですよ。」
とお伝えすると、自分もそうすればよかったと嘆いておられました。
毎月、余裕がある生活なら、なんてことない話ですが、プレゼントやお年玉は、快く渡したいものですからね。
日本には誰が創ったか分からない風習を、当たり前に『やらなければならない病』で、続ける事が多いと思います。
「自分らしく生きる為に、いい人を装ってもなんにもならない」と、恩師のおかげで気づけましたし、自由を手に入れる事が出来ました。
「ドケチで、せこい。いい人ではなく、自分の事しか考えない自分だ。」と気づけたから、そこを気をつける事も出来ますし、
無理に大盤振る舞いを装う事も、ドケチを隠すために、お年玉を気前よく渡す。なんて見せかけをしない自分になれたのです。
「本当に、そうしたいと思うことを実践する」という自分になれたのです。以前は真逆でした。
したくもないのに、世間体、人の目や評価を気にして動く自分。だったのです。むなしさしか残りませんでした。
『いい人』を演じると自分が見えなくなります。
恩師の言う通り、いい人か、悪い人かは相手が決めるわけです。
人は、皆、自分の都合で相手を推し量ります。
相手に『いい人だ』と思ってもらえるメリットって、何にもないんだなと気づけました。
単純に人に嫌われることに弱くて、とりつくろっていただけの自分だったのです。そんな生き方もお粗末だと思えたので変えました。
『いい人』をしたくなるクセは変わりません。
ですが、『いい人』ではないと自覚しているので、相手が私をどう思おうと、その方の感じるものだから、どっちでもよくなりました。
本当に、人間という生き物は、やっかいで、一筋縄ではいかないものです。
だから、面白いんですね。
『いい人』という偽物の自分を捨ててから、楽になりました。
自分を知れるとドンドン、自由になります。自分らしく生きる事が出来ます。
どんな自分かを知りたくなります。
皆さんは、『いい人』ですか?
もしかして、『いい人』を演じていませんか?
『いい人』をやめると楽になりますよ。
そのままの自分を知れるといいですよね。
それでは、今回は、この辺で。
また、お会いしましょう!
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