1980年代〜1990年代における日本の音楽シーンとフリッパーズ・ギター
1. はじめに
もうフリッパーズ・ギターのような“革新性”を持ったバンドは現れないのだろうか。日本の音楽シーンの中で売れるアーティストの特徴としては、やはり“革新性”がキーワードになる。何か“革新性”を持ち込んだアーティストが売れるのである。それは例えば、1970年代に活躍したはっぴいえんど、1980年代に絶大な人気を誇ったYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)が代表的なアーティストとしてあげられるだろう。はっぴいえんどは、アメリカのロックを日本に持ち込んだ点が革新的である。また、学生運動や反戦という背景が音楽にも持ち込まれていた中で、曲の中で淡々と情景描写をするような音楽を作っていた。YMOはテクノロジーの発達に合わせて、それらを導入して見事に駆使した点が革新的である。そして彼らのヴィジュアルも相まって、“テクノ・オリエンタリズム”で一世を風靡した。そしてその後、1990年代にはフリッパーズ・ギターが日本の音楽シーンに“革新性”を持ち込む。
ここ最近、フリッパーズ・ギターの曲を改めて聴いてみた。ひと昔前の曲というと、どこか古くささのようなものを感じる。これは仕方のないこと、というのが正直なところである。しかし、フリッパーズ・ギターの曲からはそういったものを感じない。むしろ発売から約30年が経つ今でも、新鮮さや爽やかさといったものの方が際立っている。ではなぜ私は、フリッパーズ・ギターの曲からそのようなものを感じるのだろうか。
私は幼い頃から音楽に親しんでおり、その中でもいわゆる渋谷系の音楽が好みである。とはいえ、“渋谷系”といってもなかなか他の人には通じないものである。同世代であればなおさらである。かく言う私も、「渋谷系とはどんなものか」と聞かれると正直答えに戸惑って、これまであまり良い説明ができていなかった。というのも、渋谷系の定義については諸説あり、“これが渋谷系だ”という説明をあまり見かないからである。だからこそ、自分の言葉で簡潔に説明することも難しい。
以上のような背景を踏まえて、ここではまず、1980年代〜1990年代の音楽シーンを振り返り、その中で生まれた渋谷系について再解釈したい。しかし、渋谷系の定義は様々であるから、渋谷系の全てをここで論じるのは難しい。そこで今回は、渋谷系の火付け役ともいわれるフリッパーズ・ギターに焦点を当て、フリッパーズ・ギターを手掛かりに渋谷系の一端を解釈したい。そして、フリッパーズ・ギターがなぜ短い活動期間の中で日本の音楽シーンに大きな影響を与えたのか、またどのような“革新性”を持ち込んだのかを探っていきたい。
2. 1980年代〜1990年代における日本の音楽シーン
2.1. 1980年代−音楽の情報化とCDの登場
渋谷系という言葉が使われ始めるのは1990年代からであるが、その流行の背景は1980年代の音楽シーンに遡ることができる。この頃の日本はちょうど、情報化とグローバル化の時代を迎えていた。その影響は音楽シーンにもみられ、情報化とグローバル化が合わさって、国境の壁を超えて情報や文化が急速に広まった時代であると言えるだろう。
1980年代の特徴の一つが、快適な“サウンド”を重視したシティ・ポップが登場である。シティ・ポップの音楽的な基礎にはAORがあり、洋楽のような聴き心地がこの時代の一つのテーマであった。また80年代からコンピューターの発達が音楽にも影響を与え始める。多様な作品が生まれていた中で、80年代後半からは荻野目洋子の「ダンシング・ヒーロー」(1985年)に代表されるような、ダンス・ミュージックがトレンドになっていた。ダンス・ミュージックは主に80年代中〜後半のディスコ音楽を指し、“コンピューター音楽=打ち込み”を前提として制作された楽曲が多かった。コンピューターによって一定のビートに設定可能となり、その音は機械的ではあるものの、ダンス音楽の基本である反復性を表すことができた。派手に高音を響かせることや固く重い低音を轟かせることも容易になり、楽器から解放されて、コンピューターそのものが音楽の“システム”として捉えられていたのである。コンピューター音楽だけでなく、デジタル・シンセサイザーやサンプリング音源を駆使したトラック作りも、この頃から行われ始めていた。
このようなコンピューターと音楽の関わりは、音楽の“情報化”と言えるだろう。そんな情報化の時代であった80年代において重要なポイントであるのが、1982年に生産が開始されたCDの登場である。CDの登場によって、より気軽に音楽を聴くことができることになったのもポイントであるが、それ以上に輸入音楽との関連が重要である。もともと、レコードでしか出ていなかったヒット作や歴史的作品、そして入手困難な幻の名盤が、次々とCDで再発され始めた。「つまり、CD市場の拡大によって、過去の音楽へのアクセスが、以前とは比較にならないほど容易になった」(佐々木 2014,151)のである。
またこのようにCDが浸透していくのとほぼ同時に、海外からの輸入盤レコードを扱う店が勢力を拡大したことも見逃せない。輸入盤レコード店は、最初は当然レコードだけを扱っていたが、80年代の後半になると海外の新譜CDも扱い始める。日本では、日本のレコード会社が海外のレーベルとライセンス契約を結ぶことで、日本盤(国内流通盤)としてもリリースしていた。しかし、輸入盤店が海外から直輸入することで、当時の好景気と円高の影響もあり、より早く安く海外の新譜を入手することができた。これは当時のリスナーからすると、とても恵まれた環境である。これらによって、同時代・過去ともに洋楽を聴くことが以前よりも容易になり、それらを聴いて自らの作品に反映するということが可能になった。そしてこの1980年代という時代背景が、後の1990年代の“渋谷系”へとつながることになる。
2.2. 1990年代−渋谷系の時代
1990年代の日本の音楽シーンを語るにあたって、“渋谷系”を外すことはできない。ここで取り上げる渋谷系とは、主に90年代に渋谷で流行した音楽のことを指す。代表的なアーティストとしては、フリッパーズ・ギターやピチカート・ファイヴ、オリジナル・ラヴなどがあげられる。彼らは洋楽を好んで聴いて影響を受け、それを自らの作品に反映していた。“渋谷”という日本の、東京の街の名前が冠されていたが、あくまでもその音楽のベースには洋楽があったのである。ではなぜ“渋谷”なのか。“渋谷系”の代表ともいわれるフリッパーズ・ギターもピチカート・ファイヴも、主な活動拠点は六本木や下北沢であった。それなのになぜ“渋谷”という名前が冠されたのか。それについては、1960年代にまで遡って渋谷という町の歴史や文化を理解する必要がある。
今でこそ渋谷は賑わう若者の街の一つであるが、1960年代の後半までは、今のような若者文化はほとんどみられない寂れた場所であった。というのも、今の代々木公園がある場所には、米軍の兵士やその家族が住むためのワシントンハイツという施設が当時は建っており、今とは違った異質な空間であったのである。そのワシントンハイツは1963年に日本に返還され、そこに1964年の東京オリンピックのための選手村が作られたあたりから雰囲気が変わり始める。そして1973年に渋谷パルコがオープンしたことをきっかけに、渋谷は若者の街として発展した。
また道玄坂方面にあって、1966年にオープンしたヤマハ渋谷店と1971年にオープンしたロック喫茶BYGも、渋谷系が生まれる前の大事な拠点となっていた。ヤマハは当時では珍しかった輸入レコードを扱う店で、洋楽に興味を持つ若者の溜まり場となっていて、BYGは当時としては数少ないロックバンドがライブをできるスペースがあった。このような輸入盤レコード店の影響は先に述べた通りであり、「道玄坂には、その後の日本のロックやポップスの歴史に大きな役割を果たす、いくつかの“磁場”があった」(牧村 2017,64)のである。ヤマハに限らず、音楽マニアだった渋谷系のアーティストたちが、渋谷の宇田川町界隈に密集していたレコード店で様々な音源を買い漁っていたことは、重要なポイントとしてあげられるだろう。佐々木によれば、90年代の渋谷は、“音楽の街”や“レコードの街”というよりも、“音源の街”であった(佐々木 2014)。渋谷に行けば、最新の音楽に触れることができたのである。そしてそこでは、その最新の音楽を求める人とたちがアーティスト・リスナー問わず自然と集まって、ネットワークが形成されていた。この状態は「日本の東京の渋谷という場所に、ある時間をかけて形成された、音楽ファンにとってのユートピア」(佐々木 2014,172)ともいえる。「レコードもCDも、ライヴもクラブも、ファッションもすべて渋谷で事が足りた。だから自然と足が渋谷に向かったのだった」(油納 2006,117)。
さらに宮益坂を登った先には、後に渋谷系を生むことにつながる“地下水脈”となる場所、青山学院大学がある。学生時代から、当時流行していた洋楽を積極的に吸収していた筒美京平や小西康陽などを輩出した青山学院大学において、それらの作曲家に憧れを持った学生が青山学院大学に入学するという好循環が続いたのである。
その後アートやデザイン、ファッションとミュージシャンが結びつき、“渋谷系”という言葉が90年代の音楽シーンにおいて一世を風靡する。一見、渋谷系というのはある時代において流行し、時代と共に終わっていったというように捉えられることが多い。しかし牧村は、渋谷という街には都市型ポップスの地下水脈が流れており、公園通りや道玄坂、宮益坂などの地域で生み出された文化が時代を超えて積み重なり、そういう地下水脈が偶然ある時代に奔流して世の中を席巻したのだから、単なる一過性のブームではなくいわば一つの必然だったと述べている(牧村 2017)。つまりこれは、渋谷という空間に積み重なった特性や文化などが、渋谷系という音楽のムーブメントにつながったと言える。
また渋谷系の特徴として、“アルバムが一貫性のある作品である”ということがあげられると私は思う。現代では、音楽をダウンロードして購入することができるようになった。それはつまり、音楽をアルバムとしてだけでなく、アルバムの中から一曲だけを選んで購入することが可能になったということである。作り手もそれを意識して、アルバムを作る際に、アルバム全体の質を高めるよりも、一曲一曲を磨き上げているように感じる。しかし渋谷系と呼ばれる音楽のアーティストたちは、“アルバム=作品”という意識が強いと私は感じる。アルバム全体のテーマや雰囲気といったものはもちろん、アルバム内の曲のつながりにもこだわりを感じるからである。
渋谷系が登場し始める頃は、ちょうどアナログとCDが入れ替わるタイミングであったが、そのような“アルバム=作品”という意識はCDのデザインにも見ることができる。渋谷系を語る上で、フリッパーズ・ギターやピチカート・ファイヴのジャケット・デザインを手掛けた、信藤三雄のデザインも見逃すことはできない。信藤三雄こそが「日本のCDというプロダクトをアートの領域にまで押し上げ、そして世界中のCDに絶大な影響を与えた」(伊藤 2006,62)とされているからである。例えば信藤が手がけた中で、フリッパーズ・ギターの3rdアルバム『ヘッド博士の世界塔』初回特別仕様に“3D立体ステレオフォトパッケージ”というものがある。これは外側の箱を開くと、3Dの写真を見ることができる仕掛けとなっている。このような特殊パッケージのCDは当時世界的にも珍しく、CDのデザインにおいては日本が先進国ともいえた。当時の心境として信藤は、「CDになっていくのが嫌で、泣く泣くCDのデザインをやっていた」や「アナログをデザインしたいけど出来ないから、一種の代理戦争のような形でCDのデザイン的な戦いをしていた」と語っている(伊藤亮のインタビュー内での信藤三雄の発言より)。このように曲だけでなく、持っていて楽しいようなデザインも含めての“CD”だったのである。
以上が90年代の日本の音楽シーンにおける渋谷系である。実際に“渋谷系”という言葉がいつから使われるようになったかは定かでないが、だいたい1993年頃からだとされている。そして1995年頃から“渋谷系”は衰退していったとされるが、これは第2次ベビーブーマー世代の若者が95〜96年頃に大学を卒業し、就職して渋谷から足が遠のいたことも関係しているのではないかとされる。またこの頃は、阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件も起こった時期である。社会の不安定さから、人々から娯楽を楽しむ余裕が奪われていったことも、渋谷系が衰退したことと無関係とは言えないのではないだろうか。
このような渋谷系というムーブメントの中で、その火付け役となったのが、フリッパーズ・ギターであった。次章ではフリッパーズ・ギターに焦点を当て、フリッパーズ・ギターの世界に足を踏み入れたい。
3. フリッパーズ・ギターの世界
3.1. フリッパーズ・ギターとは
フリッパーズ・ギターは1989年にデビューした、小沢健二、小山田圭吾、井上由紀子、吉田秀作、荒川康伸による5人組のバンドである。前身はロリポップ・ソニック(ロリポップ・ソニックは1987年に結成され、1989年にフリッパーズ・ギターと改名した)というバンドで、1989年の途中で井上由紀子、吉田秀作、荒川康伸の3人が脱退して小沢健二と小山田圭吾の2人組となった。フリッパーズ・ギター結成の経緯だが、「前々身である“Peewee 60’s”の結成は、当時別のバンドのメンバーだった井上由紀子(キーボード)が小山田を誘ったことがきっかけだった」(和久田 2006,102)。小沢健二は1968年生まれ、小山田圭吾は1969年生まれで、2人は中学校の同級生であった。フリッパーズ・ギターは1991年に解散するが、その短い活動期間の中で、彼らが日本の音楽シーンに与えた影響は大きい。音楽・ファッション・言動など、全てがそれまでの邦楽にはないものであったからである。2人は「戦略などという第三者の思惑でコントロールできるバンドではなかった(略)自分たちが面白いと思うことを発信して、共鳴してくれる感性や才能をどんどん巻き込んでゆく。そういうチーム・プレイに長けていた」(能地 2006,80)。フリッパーズ・ギターがデビューした当時、いわゆる“ネオアコ”や“アフター・パンク”といった、イギリスにそれまでにはない音楽の潮流が生まれていた。それに影響を受け、80年代当時の歌謡曲化したニューミュージックとはまた別の、新しい音楽を生み出そうとした日本の新しい世代の中に、「新しくも(ネオアコ)なつかしい(ビートルズ)時代の先端を走る尖鋭性(パンク)」(若杉 2014,159)を包有したフリッパーズ・ギターは存在したのである(フリッパーズ・ギターのプロデュースを担当していた牧村憲一が、各関係者にロリポップ・ソニック(フリッパーズ・ギターの前身)のカセットテープを渡した時、それを聴いて櫻木景(当時レコード会社ポリスターの社員)は「パンクである」と、当時現場でディレクターをしていた岡一郎は「ビートルズ的な感覚」と、1stアルバムのジャケットデザインを担当した信藤三雄は「ネオアコのような新鮮なサウンド」と評価したことから、若杉はこのように表現している)。彼らは音楽面だけでなく、あらゆる分野で新しい“やり方”の可能性を提示し、90年代以降のポップ・カルチャーの先駆者として大きな役割を果たした。
3.2. フリッパーズ・ギターのカリスマ性
フリッパーズ・ギターはあくまでバンドであったが、その人気ぶりからアイドルとも捉えることができる。そんなフリッパーズ・ギターが持つカリスマ性について、ここではフリッパーズ・ギターの活動を追いながらみていきたい。
フリッパーズ・ギターは1989年8月に1stアルバム『three cheers for our side ~海へ行くつもりじゃなかった~をリリースした(スコットランドのロックバンド、オレンジ・ジュースが1982年にリリースした1stアルバム『You Can't Hide Your Love Forever』に「Three Cheers For Our Side」という曲が収録されている)。またアルバムリリースの直前に、小山田が交通事故に巻き込まれて全治6ヶ月という重傷を負って入院したため、フリッパーズ・ギターは活動休止を余儀なくされた。9月には発売を記念したライブも予定されていたがもちろん延期に。メンバーが5人から2人へと変わる話が出始めたのは、ちょうど小山田の退院の予定が見えてきた頃であった。
この時期はちょうど、三宅裕司が司会を務める「いかすバンド天国」(通称:イカ天)というテレビ番組から、多くのインディーズ出身バンドがメジャー・デビューしていた“バンド・ブーム”の時代である。しかし、「バンド・ブームでは派手なバンドをやることの楽しさやバンド活動にまつわる精神性が注目されることが多かったが、彼らの関心はそれより音楽にあった」(北中 2006,74 。1stアルバムは全曲英語詞(『three cheers for our side』の歌詞カードには英語詞の日本語の対訳を小沢健二が書いており、洋楽の日本盤に封入されているライナーノーツのような体裁になっている)で、サウンドも当時一部でしか聴かれていなかったようなイギリスのネオアコやギター・ポップから大きく影響を受けたものになっており、当時としては画期的というよりも、むしろ無謀であるとの見方が多かった。結果としてこの1stアルバムは一部の熱心なリスナーに受けた程度で、セールス的にはあまり良くなかった。しかし、翌90年6月に発売した2ndアルバム『カメラ・トーク』(このアルバムは第32回日本レコード大賞「最優秀アルバム・ニュー・アーティスト賞」を受賞した)で路線転換をする。2ndアルバムの収録曲は全曲日本語で歌われており、サウンド的にもポップでキャッチーなものが増えたため、前作をはるかに超える評価を獲得した。またこのアルバムの一曲目に収録されている「恋とマシンガン [young, alive, in love]」が1990年4月〜7月にかけて放送されたTBS系ドラマ「予備校ブギ」というテレビドラマの主題歌になったこともあって、2人のメディア露出が増えたことが、一気にブレイクへとつながった。そしてそれは、先述した渋谷系という音楽のムーブメントのきっかけにもなったのである(フリッパーズ・ギターは“渋谷系を代表するアーティスト”とされるが、実際に“渋谷系”という言葉が使われ始めたのは1993年頃とされ、これはフリッパーズ・ギター解散(1991年)後のことである)。
一気にブレイクした中で、リスナーに対して新しい「音楽の聴き方」を提供したことが重要なポイントである。フリッパーズ・ギターは「雑誌の「お気に入りグッズ」特集で、他のセレブはアンティークのペンダントなどを持ってくるのに、珍しすぎて意味不明なネオアコ・シングルを300枚くらい撮影スタジオに持ち込んでせっせと床にぶちまける」(能地 2006,79)など、彼らが影響を受けているアーティストや曲を、メディアの中で積極的に開示していた。これに関して能地は、ファンは彼らが教えてくれる作品に触れることで、フリッパーズ・ギターが身近な存在に感じられるようになり、またファンと価値観を共有することで、自分たちの音楽に対する理解も深まることを彼らは分かっていたと述べている(能地 2006)。また当時のレコード店は“男社会”であったが、フリッパーズ・ギターが「「中古レコ屋で、エサ箱(編集注:レコード屋において、レコードが入った箱のことを指す)をサクサクしてる女のコってカワイイよね!」とか「今いちばんオシャレなデート・スポットはもちろんレコ屋」とか、アイドルというよりも詐欺に近い主張を繰り広げた」(能地 2006,82-83)影響もあり、若い女性客の姿も見られるようになった。「オリーブ少女(編集注:日本の女性向けファッション雑誌『オリーブ』(Olive)からきている)が『黄金の七人』のサントラを見つけて、あまりの高値に溜息をついていたり。ビーチ・ボーイズのブートを手にして怪訝そうに首をかしげているところを、隣のオッサンがさらに怪訝そうな顔で睨んでいたり。本当にビックリした。それは革命的な光景だった」(能地 2006,83)とも言われる。それほどフリッパーズ・ギターの言動は、大きな影響力を持っていたのである。
とはいえフリッパーズ・ギターがブレイクした要因は、音楽よりもルックスやファッション(フリッパーズ・ギターはフレンチ・カジュアルという“渋谷系ファッション”流行のきっかけをつくった)、トリックスター的な言動など、彼らのキャラクターによるものが大きかった。読者投稿による雑誌の連載も始まって、いわばアイドルと呼んでもいいような存在になっていったのである。そしてそのファンは、コアなマニア層だけでなく、今までネオアコに全く縁がなかったようなローティーンの女の子も多かった。
ここでもし、フリッパーズ・ギターの影響によって、リスナーに新しい音楽の聴き方が浸透して、それが後世にも伝えられていたらどうなっていたのだろうか。もしかすると、後のリスナーの聴き方や日本で売れる音楽も変わっていたかもしれない。そう考えると、フリッパーズ・ギターの2人が仕掛けたことは、ある意味大きな“文化的実験”であったとも言えるのではないだろうか。
3.3. 曲からみるフリッパーズ・ギター
ここではフリッパーズ・ギターの曲から、フリッパーズ・ギターについてみていきたい。「フリッパーズ・ギターにおける、“甘い歌声を持つ小山田と優れた詩人である小沢”という関係は明白だが、作曲の分担に関しては曖昧である」(和久田 2006,102)。それは、フリッパーズ・ギターが2人のイニシャル(K.O)から命名された“Double Knockout Corporation”という名前で作詞作曲のクレジットを分け合っていたからである。しかしこの“Double Knockout Corporation”の表記が使われ始めたのは2ndアルバムの『カメラ・トーク』からで、1stアルバムの『three cheers for our side ~海へ行くつもりじゃなかった~』ではクレジットが明確に記載されていた。そこから読み取ると、「当時のネオ・アコースティックを中心とした英国音楽のシーンには、小山田の方が傾倒していた」(和久田 2006,103)ように感じる。そのサウンドに関しては、1980年代にポスト・パンクとして登場したいわゆる「ネオアコ」の影響を多分に受けており、アズテック・カメラやスタイル・カウンシル、ヘアカット100などが具体的なアーティストとしてあげられるだろう。
また“引用”の見せ方については、解散後の2人のソロ・アルバムからも読み取れるが、小沢の方が慎重であった。一方で和久田によれば、小山田はシーンの変化とリンクして対応するスピード感覚を持っており、また解散後すぐにトラットリア・レーベルを設立するなど、興味のあるものにはどんどん手を出すような遊び心は、小山田ならではと言える感覚であると述べている(和久田 2006)。
そして小山田の特徴といえばその歌声であるが、これには歌声そのものだけでなく歌唱法も関係している。というのも、小山田は抑揚のないハーフヴォイス(普通の声とファルセットの間の声の出し方で、中性的に聞こえるのが特徴である)のノンビブラートで歌っているのである。このハーフヴォイスとノンビブラートが合わさると、どこかあどけない少年生の目立つ歌声となり、これがフリッパーズ・ギターのカリスマ性、キャラクターとうまく結びついたと言えるのではないだろうか。この小山田の歌声・歌唱法という要素も、フリッパーズ・ギターが魅力的で人気のあるバンドとして受け入れられた理由の1つであると言えるだろう。
フリッパーズ・ギターの曲において、歌詞は主に小沢健二が書いていた。小沢健二の書く歌詞はカットアップ(テキストをランダムに切り刻んで新しいテキストに作り直す、偶然性の文学技法のこと)の手法を使ったものになっていて、アメリカやイギリス文学からの引用もあった。このように独特な手法で歌詞を書いていた小沢健二であるが、これは両親が大学教授であることや、叔父が小澤征爾であるという家庭環境がポイントだろう。「小沢健二は幼少期をドイツですごし、中学時代にジョン・アーヴィングや哲学書、高校時代にはラテン・アメリカ文学やダシール・ハメットやレイモンド・チャンドラーらハードボイルドや、ポスト・モダン(ミシェル・フーコーなど)を読みふけっていた」(荻原 2003,96)。このように小沢健二は、若い頃から読書を通じて素養を身につけていたのである。1970年代に松本隆が「日本語のロックが英語のロックよりも劣るなんて馬鹿げた洋楽至上主義を覆した。YMOの“散開”という解散後、その文脈が途切れることで80年代の半ばに“イカ天” “ホコ天”という歌詞の読解性が弱いシーンになった」(伊藤 2006,73 伊藤亮のインタビュー内での牧村憲一の発言より)。そのような流れの中で、小沢健二の書く歌詞は、日本の音楽シーンに一石を投じるものであったのである。ここで小沢の登場がなければ、日本の音楽シーンにおける歌詞は、より弱いものになっていたかもしれないだろう。
フリッパーズ・ギターの曲は引用・借用が中心になっているから、それがどこから引用・借用されたものかがわかる人にはわかって、その分惹きつけられて興味を持つと考えられる。しかしながら、そこまでコアでない人にとっては解釈が容易でない。逆にこの頃に売れていた日本の曲は、曲の歌詞から場面や気持ちを読み取りやすいものが多い。だからいわゆる“ヒット曲”は、曲がわかりやすい分、多くの人に受け入れられたのではないだろうか。
「音楽には二通りある。ひとつは聴き手にアピールする音楽と、もうひとつはつくり手を触発する音楽。(略)日本のばあいは、あまりにも聴き手にアピールする音楽に偏りすぎている」(若杉 2014.168)。そう語ったのは、日本を代表するミュージシャンの1人、山下達郎である。この山下達郎の発言をフリッパーズ・ギターに当てはめると、リスナーをアーティストにするという意味で、フリッパーズ・ギターの音楽は、後者のつくり手を触発する音楽に当たるだろう(このようなアーティストを佐々木は「リスナー型ミュージシャン」(佐々木 2014)と呼んでいる)。そしてフリッパーズ・ギター自身もまた、そのようにつくり手を触発するような音楽から影響を受けていた。
フリッパーズ・ギターの曲は、歌詞もサウンドも情報量が膨大である。だからこそ、その情報をしっかりと受け入れて整理し、解釈しなければ、フリッパーズ・ギターの本質や魅力は最大限引き出せないと言える。これはフリッパーズ・ギターの作品をただ“娯楽”として楽しむだけでなく、「膨大量な“過去の文化情報”を編集的に組み合わせた産物」(難波 2005,146)としての“文化”として味わう必要性があった、と言い換えることができるだろう。それだけフリッパーズ・ギターの曲には“文化性”が含まれているように感じる。しかし情報化の時代になり、身の回りに情報が溢れるようになった。都会で生活する人々は、情報に戯れることはあっても、しっかりと向き合うことは少なかった。だからこそ、戯れるだけでも容易に受け入れられたり共感できたりするような、いわば“教科書的な音楽”が流行ったのではないだろうか。ここでいう“教科書的”とは“解釈が一様である”という意味であり、歌詞からその情景等がイメージしやすいようなものを指す。そう考えると、フリッパーズ・ギターの曲には注意深く耳を傾ける必要があり、また曲から得られる解釈は様々であるから、“非教科書的な音楽”とも言えるだろう。フリッパーズ・ギターは情報化の時代を存分に駆使した音楽作りをしていた。しかし、彼らが提供する膨大な情報量と、リスナーが受け入れられる情報量のキャパにズレが生じていたように、私は感じる。「リスナーが妄想を働かせて音楽に親しみ、繰り返し作品を聴くしかなかった時代の方が、何でも簡単に手に入る今よりもはるかに精神的に豊かだった」(岡村 2006,58)。そしてその時代を、まさにフリッパーズ・ギターの2人は経験していた。フリッパーズ・ギターの音楽には、自分たちと同じような経験を、今度は自分たちの作品を通してリスナーにも経験してほしいという願いが、込められていたのではないだろうか。私がフリッパーズ・ギターから感じる新鮮さも、これが関係しているように感じる。現代のアーティストにおいて、こういった要素を前面に出すアーティストはほとんどいないからである。
4. おわりに
ここまで1980年代の音楽の情報化とCDの登場についてまとめ、そして1990年代の音楽シーンを振り返って、フリッパーズ・ギターを手掛かりに渋谷系の一端を解釈した。そして、フリッパーズ・ギターの“革新性”について考えてきた。
フリッパーズ・ギターの革新性について、特に重要なのはリスナーに与えた新たな“聴き方”だろう。フリッパーズ・ギター以前のニューミュージックのアーティストとは違い、自分たちが影響を受けたアーティストについて積極的に開示していたことは、やはり見逃せない。そしてこのように自分たちの趣味趣向を発信していたのは、単に自分たちのことをより知ってもらいたいという思いだけでなく、影響を受けたアーティストに対するリスペクトも含まれていたように感じる。ファッションやキャラクターなどに目が行きがちだが、フリッパーズ・ギターは新しい文化を創造し、新しいライフスタイルの提供もしていたと言えるだろう。
フリッパーズ・ギターのプロデュースを担当していた牧村憲一は、時代が螺旋構造になっていると語っている。これは「一人のスターが世に出ることによってその周囲にいる沢山の人たちに光があたるという構造」(牧村 2017,261)のことである。吉田拓郎、松任谷由実(荒井由実)、竹内まりやがその“スター”の例として挙げられるが、1990年代においていえば、それはフリッパーズ・ギターであったのである。フリッパーズ・ギターというスターが世に出ることによって、後に渋谷系と括られるアーティストたちにも光があたるようになったと言えるだろう。
また、21世紀に入ってから音楽業界が直面してきた問題について柴は、それは単なる不況ではなく構造的な問題であり、それをもたらしたのは人々の抜本的な価値観の変化、すなわち人々の音楽に対する消費の軸足が“モノ”から“体験”へと移り変わったことを挙げている(柴 2016)。つまり音楽は聴く時代から体験する時代になったのである。そしてそれが2010年代の今、星野源の登場などにより、また聴く時代へと戻ってきている感覚がある。その中で近年、小沢健二が再び表舞台に戻ってきたことは、果たして偶然なのだろうか。また21世紀に入ってからの小山田圭吾の作品は、それまでの歌ものの要素は削ぎ落とされ、音を重視したシンプルな作りで、リスナーのイマジネーションを広げるようなものとなっている。このことは、小山田圭吾が“体験”よりも“モノ”としての価値を高めようとしていることを、表しているとも言えるのではないだろうか。そのように考えると、フリッパーズ・ギターの2人は、解散後も常に時代に敏感であると感じる。
時代の流れの中で、音楽の聴き方や売れるアーティストなど、音楽を取り巻く環境は年々変わってきている。しかし、もうフリッパーズ・ギターのような“革新性”を持った、奇跡の組み合わせとも言えるようなバンドは現れないだろう。当時フリッパーズ・ギターの取材を担当していた能地は、「おそらく小山田圭吾でさえ、小沢健二でさえ、あの濃密な時間を再び構築することはできない。あれは二度と来ない季節だからこそ意味がある。だからこそ美しい」(能地 2006,83)と語っているが、まさにその通りである。フリッパーズ・ギター解散後も、“ポスト・フリッパーズ・ギター”のような存在はいくつかあったが、そういったバンドが成功することはなかった。それだけフリッパーズ・ギターは特別な存在なのである。
彼らが活躍した時代の音楽を聴いたり、今回のようにその時代について考えたりする度に、私はその時代への憧れを強く感じる。1980年代〜1990年代の、音楽産業が活気づいていた頃を体験できるような時代が、これからまた訪れることを私は願っている。とはいえ、それは容易なことではないだろう。だがしかし、このようにその時代を体験できないことを残念に思いながらも、その時代へと思いを馳せながら楽しんでいる自分もいる。これは、憧れの対象が二度と来ない時間に向けられているからこその楽しみ方である。こういった思いを抱えながら私は、これからも渋谷系の、そしてフリッパーズ・ギターの曲を聴く。
〈参考文献〉
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・油納将志,2006,「フリッパーズ・ギターの歩み」,『ミュージック・マガジン10月増刊号 ジャパニーズ・ロック/ポップ 1』, 第46巻第10号,通巻627号,46-51.
・油納将志,2006,「“渋谷系”検証」,『ミュージック・マガジン10月増刊号 ジャパニーズ・ロック/ポップ 1』, 第46巻第10号,通巻627号,114-117.
・若杉実,2014,『渋谷系』.シンコーミュージック・エンタテイメント.
・和久田善彦,2006,「フリッパーズ・ギターの小山田圭吾 無邪気にシーンの変化とリンクするスピード感覚」,『ミュージック・マガジン10月増刊号 ジャパニーズ・ロック/ポップ 1』,第46巻第10号,通巻627号,102-103.