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植木鉢に水をやらなければならない。

 オーロラを見るまでは死なないことにしている。でも、シベリア鉄道横断もしなくちゃいけないし、何よりアイスランドに行かなければいけない。この世界は少し広すぎて困る。地球が冥王星くらいのサイズだったらよかったのに。

 居酒屋で一人で酒を飲んでると、時たま現実がクッソどうでも良くなって、はよ人生終わらんかな、とか他人事みたいに思う。
 やっぱり俺は自分の周りのすべての環境を創作のネタとしてしか捉えられない部分があって、だから、もし創作衝動が無くなったらどうしよう、なんて思うともう気が気じゃない。周りのすべての意味が無くなる、というより、わからなくなる。自分の周りのすべての意味がわからなくなってしまう。

 ビールを何瓶か飲んで麦焼酎を飲んでいると、小便したくなってトイレに立つ。用を足して手を洗いながら横の壁を見ると、『147万円で世界船旅一周』なんてポスターが貼ってある。さっきまで自分の生を嘆いていたくせに、そのとき急に、生への執着と自我が胸にひしひしと起こりくる。
 147万。ちょっと頑張ればギリ行けそうなこの価格が俺の胸中を不穏にする。もちろん、このツアー元はたしかちょっと怪しかったはずだし、何より俺はツアーの旅行が苦手で自分で旅程を組んで行くことに旅行の楽しみを見出しているのでこれでは行かないとしても、でも。
 でも行きたい。いつ死ぬかわからんし、早いうちにイエローナイフ行って、アイスランドでギャオを見て、ウラジオストクから二週間電車旅をした方いい。
 蛇口を無意識に締めバサバサの紙で手を拭いながら、ポスターに映る写真を一つずつ軽く見ていく。俺は一体、何に憧れているのだろうか。

 焼酎を飲み終わると、俺はだいたい日本酒にすぐに行ってしまうか、梅酒を挟むかで悩む。別にこれは俺が好きだからなのであるけれど、でも、いつからこうなったのだろうか。いつからこの順番で飲まなきゃいけないというルールを自分に設けてしまったのだろうか。

 いつからこうなってしまったのだろうか。いつから、創作に没頭するようになったのだろうか。いつから周りの出来事すべてを抽象化し、テーマ化し、創作の栄養素としてきたのだろうか。いつから周りのすべてをそう見てきた?
 楽しいことも嬉しいことも、ぜんぶこれは何かに生かそうなんて、いつから無意識的に思うようになってしまったんだろう。いつから俺は、そうした創作というフィルターを抜きにして純粋に何もかもを楽しめなくなっていたのだろう。こうして気楽に酒を飲むことすら、文章にしているというのに。

 気づけばいつからか、嫌なことも悲しみも苦しみも痛みも、どうせいつか創作の糧になるからいいや、と諦めてきた。表情は豊富に出せれど、乾いた人生を生きているんじゃないかという自分への失念が心のなかに渦巻いて、あたかも俺は自分の人生ではなく、『かぱぴー』という役割をなぞっているだけかもしれないような実感がときおり首をもたげて鎖骨あたりを突いてくる。
 人に理不尽に怒られても、道端で急に殴られても、恋人に浮気されても、物が盗まれても、事故って顔面が崩れてほとんど死にかけても、別にこのエピソードや経験は創作に生きるし、と諦めるようになってしまった。

 まだ二十代だというのに、この胸の中心にある枯れた悟りのようなものはなんなのだろうか。水をやってもらっても、造花にはなんの意味もない。芋虫も蝿も人間も肥料も水も、みんな環境でしかない。花や葉はてかてかしていても、元からてかてかしているだけだ。
 自分のことを、楽しそうだな、って時折思ったりする。でもそれは楽しいな、というよりは楽しそうだなっていう感覚で、どこか他人事のよう。
 日常の些細なことや温かい人間関係に心が本当に動いているのか、自分ではわからない。それは、『かぱぴー』という役割で感動をしているのか、作家というロールの上で感動しているのか、それとも本当に自分の心が動いているのか。恋愛にときめきはもう要らないかなって言い出したのって、いつからだったっけ?

 そうして最近、生きることとタスクを処理することの違いがわからなくなってきた。
 あらゆる予定も楽しみも仕事も、すべて創作に繋がってしまうと、なんだかすべてがやらなければならないもののように思えてきて、それ自体を純粋に楽しんでいても、楽しんでいるつもりなだけかもしれない、なんて、そんな、違うはずなんだけど、どこか違くないんだよ。
 一つ終わるたびにやらなければならないことが目の前に山積みになって、そうすると飯を食うことや寝ることや飲みに行くことまでもが、そうした積み上がった目の前のタスクと変わらなく見えてきてしまう。
 純粋に悲しむことも、純粋に楽しむこともできなくなって、そうしたら俺は、本当に、どうすればいいだろうか。


 人間関係リセット症候群? みたいな言葉があって、でもそれに近いのかもしれない。結果的に俺が旅に出たくなるのって、それに近いのかもしれない。俺は旅にだけは、純粋な喜びや楽しみを見出せてる、と思う、今のところは。その理由はたぶんここだろう。
 俺は擬似的に現実から解放されたいんだ。すべてを創作に置き換えてしまう自分の思考から逃れたいんだ。
 でも、人間関係をすべてリセットする気概も強さもないから、旅行という手段で代替しようとしている、そんなの問題の先まわしに過ぎないとわかっていても。

 もし、もし万が一、オーロラを見なければならないとか、シベリア鉄道を乗り通さないといけないとか、アイスランドに行かなければいけないとか、そういうことすらタスク処理になってしまったら、どうしよう。本当にどうしよう。
 だから俺は絶対的に震えていて、もうこの現状を現状として愛し尊ばなければいけないときが目前まで迫っている。逃避する手段を持たなくなってしまったら。本当に。

 なんだか昔は、小説を書いたり創作することがその逃避手段になっていた。創作することでそうしたものから逃れられていた気がした。何か架空の物語を生み出したり情景や心情を編み出したりすることは、大いなる現実からの飛翔だった。
 しかしどうだろう。俺は悲劇的なことに、そのタスクからの逃避の手段であった創作というものそれ自体を、仕事というタスクにしようとしている。

 でもそれは仕方のないことなのかもしれない。生きることとはそもそもタスク処理となんら変わらないものなのかもしれない。そもそも俺らには肉体が存在する以上、現実逃避なんてものも根本的には存在しないのかもしれない。きっと俺は人間関係をぜんぶリセットしたとしても、このキャラクターで生きてしまうだろうし。
 これは呪いに似ている。
 俺が双極性障害のことをそう思っているかのように、これはそういうものなのかもしれない。俺は生まれつき、定期的に鬱になってしまうプログラミングが脳に施されていて、それはもうほとんど呪いだ。
 同じように、創作を仕事にしようと決意したとき、俺はもういわゆる現実逃避ができなくなったのだとしたら。
 俺に残されたのはもう、決心だけになってしまった。

 もしかしたら、オーロラなんて大したことないかもしれない。実際に見ても、ふ〜ん、こんなもんか、テレビで見た方が綺麗じゃんと思うかもしれない。
 本当は、そのときにショックを受けられる俺でありたかった。でも、別にきっと動じないんだろうな。そして何かのエッセイにその話を書くんだろう。
 でもまあ、それでいいか。酒飲めばアッパーになったりダウナーになったりして、ちょっと問題は先延ばしにできる。
 そういう寂しい処世術ばかり覚えていく、今後も。もう大人だし。生きることとタスクを処理していくことがイコールなら、ちょっと先延ばししても、すこし成績が悪くなるだけだ。
 はたして、俺はなんのために創作の道を選んだのだったろうか。

 今日はもう酒回って眠いから、明日こそは植木鉢に水をやる。やんなきゃいけないし。ああ、ちゃんと管理しないと枯れるのやだな。
 そうだなあ。なんかもう、造花の方がいいかもね。

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