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ほにやのよさこい踊りをつくる概念について 沖縄ほにや時代の事

沖縄ほにや=SG(有)+ほにや(無即有、有即無)。

SG、創価学会の人間がほにやにいって踊り、もってきた踊りを元に団体を作り、沖縄ほにやを作った。そして暖簾分けされた。
しかし創価の価値はどこか有限な物を扱っている。他方、ほにやの場合、よさこい踊りは1年毎にテーマにより、踊りや衣装、音楽が変わる。変わらないのはよさこい節のみになる。
沖縄ほにやはこの相反する価値を併せ持っていた。同時に創価の価値観でい年毎に変わるよさこい踊りに永遠性や仏性を与えていた。知らぬ間にその価値がつけられていた。その考察をしていきたい。


SGの価値観は法華経になる。
法華経の方便品、寿量品の思想を基にして勤行している。
創価の人間に言わすと、仏教の中で一番優れた経典らしい。

方便品

方便品は法華経の前半にあるもので、誰もが仏になることが説かれている。
仏性への目覚めが主になるそうだ。

寿量品

寿量品。正しくは如来寿品。このお経の話は、釈迦久遠の昔から未来永劫にわたって存在する仏として描かれている。

仏様の永遠性を説いている節がある。

引用した情報はgooと京都の日蓮宗の寺のサイトから引用した。
創価の場合は、勤行する根拠があいまいに見える。ただ法華経の大事な法理としか説明していなく、どのような物か見る限り曖昧だ。

日蓮宗も創価学会も法華経が絶対である事には変わりはないようだ。

ほにや

ほにやのよさこい踊りは1年毎に夏のよさこい祭りを境に変わる。
新しいテーマを元にして。作られたものを無にして新しくつくる。
よさこい節以外は。
「無即有、有即無」は無から有を作り、有を無にしていくもので、新しく物を作る考え方。西田幾多郎等の京都学派の哲学者たちが使っていた用語。

ほにやの場合は、周りからありあわせの材料(情報)を集めて、テーマを作り、テーマを中心にして踊りの型や衣装、音楽を作り、ブラッシュアップしていくもの。人類学者のレヴィストロースが未開人が神話を作る時の手段として、考案した物で「bricolage」(ブリコラージュ)と言われている。(フランス語で器用な仕事と言う意味)

もっと言えば、bricolageは方法になる。よさこい節しかない空虚な空間に材料を集めるのだから。河合隼雄の言う「中空構造」に近いだろう。

この中空構造は日本神話を書いた「古事記」の話からきている。
主な例で神話でアマテラスとツクヨミ、スサノオという三人の神がいる。
アマテラスと、スサノオの話は数多いが、ツクヨミに関しては話が少ない。前者の二人の間にいても無為な存在になっている。


ほにやのよさこい踊りを例にして、中空構造とbricolageの話を合わせると、空虚な中にありあわせの材料を集めて神話や踊りのようなものを作り、ブラッシュアップされて作られる。作られれば、その中空な空間から出て存在し、再び中空構造の空虚な空間から何かを作られていく前提にもなる。


重ねて考察

沖縄ほにやと言う団体の中に、創価とほにやの異なるものが入り込んでいた。前者の考を持つ人はよさこい踊りに価値を与えた。
その価値は仏性を与えて永遠な物にして扱うというもので、創価の人間は、学会の大先生の存在を言えない代わりに、よさこい踊りにその価値を付随させていった。

それにより、メンバーの大半は、よさこい踊りに陶酔していった。しかし、その価値に衰えが出てくると動揺していく。反面、新しい踊りが出ればどよめきだす。永遠性を与えた物が1年毎に変化していくので、創価の人間の言う永遠性は儚く変化してゆく。その矛盾がある。その矛盾に気づく人は当時いなかった。

事実、沖縄ほにやは、リーダーが踊りの価値を煽っている、過剰に盛り上げる節もあり、般若心経的な無常さとは無縁だった。

その意味で沖縄ほにやと言う団体は、栄光や発展のみを求めていたが、無常や衰退には無頓着だった。ほにやが1年毎に踊りを更新させていき、メンバーがついてく過程で、自分もついていけなかった。この要素が沖縄ほにやでは理解しきれてなかったのだと思う。

踊りの1年毎の更新、変化は、有限なる永遠性を否定していくものだから。
この否定による変化が、ほにやの強みになるのだろうと思う。

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