よさこい踊りへの共感性 縛りになってた
共感性によって、煽られた、挑発された世界は 行き詰まる。
理想だけが漂い、応じると敷居が高い。
沖縄ほにやの言っていた共感性。
この共感性には自分が毒されていることに気づく。
当時、「誰かと踊りを共感してもらいたい」と言う願望が言われてた。
その考え方に無意識に影響されていた。
彼等は「見る人も、踊る人も楽しく」とは言っていたが、敷居が高すぎた。
自分たちと対等に共感するものでないと、下に見てた。それを自己満足と言っていた。故に彼等にとって、踊り以外の価値で自分たちより下の価値を自己満足見てたと思う。
具体例
そのいい例が哲学や人間関係の分析だった。
必要な話をされてない場面で出すと、サブリーダーに封殺される。
書いていて、どうまとめればいいかと言うのが悩みだと言うと「それは自己満足だ」とリーダーが言い出してた。他にも「無駄」とも言われた。
分析した物を、レポートにしてまとめたら、リーダーは使いやすいフレーズをパクって、MLにだしてた。抗議した。
共感性を理想としてて、又は困ったことがあれば相談と言っていたが、踊りのみの相談だった。踊りでダメ出しして、封殺されて、踊りマンセーして関心持たないと、ならない場所になってた。
文化を作ると言ってたのにこの矛盾。
敷居
彼等の言う共感性は敷居が高すぎた。
自分らの価値と対等でない共感性には関心なかった。
封殺されて、管理される心境になる。「感受性全開」と人の感性に訴えかけて、よさこい踊りに素養と言うスローガンもあったが、感性を煽って動員するようなものだ。
感受性を踊りの共感性で動員するようなやり方はおかしいと思った。
よさこい踊りは祭りの為の踊りだし、常に祭りがあるワケでもない。常に祭りのイベントの為にテンション高い事を言われるのは、ついてけない。
「よさこい踊り楽しもう」と言って、共感性を煽り、同調をさせようとする行為を集団内でやろうとしてた。踊りに対してのみの感受性と共感性のみだったと思う。
この共感性に支配されて、最近まで気づかなかった。
当時の連中には、理解できないだろう。よさこい踊りは楽しく踊れて当たり前だったのだから。
共感性や楽しむ事は煽られる覚えも筋合いもない。支配されるなど言語道断。自分の価値観をも否定されてまでの共感性なん手は特に。
共感性を言う人々は、排他的と思う今日この頃。
結果的に、哲学や人間関係への肥やしになったことは間違いない。
不合理な環境こそ、発展、成長するのだから。