ある踊り団体 今の考え まとめ
ある踊り団体
仕事でもないのに仕事のような扱いで価値観を求めてきた。
仲間意識に対して過剰だった。
彼等は戯れている。群れてるだけで仲間と見なすらしい。
仲間というより、この場合平等な意識で群れている物を仲間として扱っている。
本来、仲間というのは意思の疎通、気心合う間柄の者同士を言うと思う。
この場合、ある種の平等性によって成っていて、無作為に集められて、募集されていた。
価値感、意識の高さを求められてて、理想だった。高知の踊りの素晴らしい理想。
それのニーズを求めていた。その上での個性の尊重、異文化礼賛。
まるで地球市民的なものだった。その理想の為に意識高い人を集めたがっていたが、踊りの人数にて、人を集めないとならなかったと思われる。
この踊り団体は、のれん元の高知の踊り団体の様に毎年、組織を新しい踊りごとに募集と解散を行って、人を入れ替えることまで及ばなかった。
沖縄の場合、村落構造で集まりが作られていくので、共同体の色合いが濃く、その場に執着しやすい。よって村落的にヒエラルキーが作られて固定される。故に外の文物に価値を求めないとならなくなり、それがこの踊り団体としての存在意義になる。
高知から踊りを持ってこないと、この踊り団体の存在意義がなくなる。