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暖簾分けされた団体についての記憶
高知ほにやについて
聞く限り、素晴らしい。
その一方で踊りの衣装のデザインは厳しい。
ブランド物で価値が高いと聞いている。
暖簾分けされた団体
高知ほにやの、暖簾分けされた団体の中にいると、この素晴らしい価値に対して、自己陶酔する人が多かった。男女関係なく、何人かしてた。女子が多かった。
自己陶酔するのは、よさこい踊りとその衣装。楽しいらしい。
そして、過剰にほにやを賛美して、恐れていた。
リーダーはやたらと価値の崇拝をしていて、それを「怖いぞ、恐ろしいぞ」という形で素晴らしさと、高級であるかを語っていた。
踊ってみて、どのように楽しいかはわからない。
聞くと衣装のデザインがきれいと言っていた利、踊りが華麗だと言う。
踊りの華麗さはそうなのだろう。
しかし、やたらと賛美しすぎだ。
奇麗なものにしすぎてて、汚いもをに触れさせないようにしていた。
踊りへの共感性/強迫観念
踊りへの共感性/強迫観念さはあった。
メーリングリストで踊りのすばらしさを宣伝していた。練習時間の告知と共に。中には万葉集の引用とくっつけるのもいた。
その反面、踊りへの共感性がメンバーにない事には、ヒステリックさがあった。特に女性。彼女達には、よさこい踊りは観念上、恋人のような存在で、自分を生かしてくれて、その妄想、空想を実現してくれる物なのだろうと思った。それを主張している所があり、共感しないことに不満を感じていた。
その不満が出るのは、踊りの練習してて、ダメ出しするときに出る。下地として。踊りのズレの事や笑顔ができない事へのダメ出しなど。踊りの概念に対しては何も語りもしなかった。
ほにやも踊りに対する共感性にはヒステリックなのかもしれない。
「楽しめ」という念仏のみが響いてた。
仕事でもないのに芸能として仕事として、扱うのにはついてけなかった。当然だが、夢のような産物が、抑圧的な物になる事を経験した。
仕事では、価値を過剰に賛美する人は見たことがない。
輸入業者が輸入物を味わい、楽しむことで『楽しめ』と言っているのに人怒った。賛美、自己陶酔さの向こうには自己の自信のなさが見え隠れしていた。
ただ、楽しみ、共感して、陶酔する。
その為の価値でしかなく、それが残るのみになった。
あの人らは、客観的に分析することはないかもしれない。
いい思い出だし、全てだから。
価値 権威
思うと、のれん分けされた団体は、のれん元の価値観に陶酔しやすく、権威化されやすく、リスペクトしすぎる構造にあるのではないだろうか?
(付け加え 12/8)