共感性 楽しむこと等に就いての疑問
沖縄での経験
経験したこと。
楽しむことのみが最大公約数になる。
楽しくない人にはみんな無関心。当たり前だが、相談しにくい風土にも思った。「楽しいこと考えろ」、「難しいこと考えるな」、そんな言葉しかない。
しまいには、病院いけ、カルトが親身に誘惑してきたり、左翼の反対運動に誘われるかしかない。又は良くて福祉か。
みんな、無関心に見える。
人間関係にて
人間関係で仲間と見なされても、話が通じなかったり、意気投合しないと仲間ではない。それは服従するための横の関係になる。
人間は社会的な生き物ならば、他の人間と言葉と動作で関わる。
関わって言葉が通じないと、人間の意識は制約されていく。
もし踊りで「笑顔のみで踊る事」を求められるのみならそれは、自分を人形にするしかない。空しいものである。仲間と称する人は、「何でも相談して」と言っても、意志の疎通がないと、いざ頼ろうとすると手の平返されるならば、それは偽善に等しい。人を哀れんでいるだけで、他人に無関心でしかない。
意識の幅が狭くなると人は、おかしくなる。ヤケになり、言葉を出そうにも出せなくなる。昔いた沖縄のよさこい踊りの踊り団体はそう見えた。他に沖縄にいるときも。知り合いにも相談したが効果ないように見えた。どうしようもなくソープに行くことになり、憂さを晴らす。今も使っているが、対話ができなかったり、疎外されていくと、ソープに行く事さえも、憂さを晴らすためか、自分を表出していく事のみ目的化されて行き袋小路になる。
私自身は人間関係斬り過ぎたこともあるが、嫌な人間関係斬っても他がないと苦しい面もあったのだろう。それでも、切っておかないとならないことがある。病院行け、反対運動行け、福祉?、カルトの誘惑。共感の共同体からズレて、待っているのはそれしかない。
共感性など、合うか合わないかの選択のみで、毒に等しい面がある。
それを求めすぎると、不寛容さや排他性が帯びてくる。
沖縄は優しい人が多いが、血も涙もない人が多いのかもしれない。
もっと言うと優しいのは身内のみかもしれない。過剰な仲間意識がないと、もうあなたはダメだとしか言わないのだから。ストレートでも遠回しに言っても。
結果、自分で頑張るしかなく、もがいて苦しんで倒れるまでもがけとなる。倒れる寸前になって、皆が気づくことになる。
無関心-関心
誰かが沖縄の無関心さに穴をあけたと自我自賛している人がいるが、納得した記憶がない。本人の自己満足だろう。よさこいの踊り団体に入れると、無関心さは無くなっても、よさこい踊りのみ自己陶酔するだけで、踊り以外の事には無関心な人を作ったと言う事にもなる。
無関心と関心。感心しすぎると自己陶酔過ぎていき、無関心すぎると、排他的になる。無関心-関心の間にあるものがないなら両者の要素が混合化したものがいるのかもしれない。