幼さという檻【短編小説】
噂話は嫌いだ。ほとんどの場合、それは誰かを傷つけるものであるから。
これまでの経験からエレミアはそう考えていたが、しかしメイドとは往々にして噂好きなものである。特に旦那様や奥様、三人いる坊ちゃまがたの噂は、彼女たちにとって何よりの娯楽だった。母を亡くした十一から勤め始め、二年が経つと、エレミアも主人家族のことはひととおり知るようになってしまった。
たとえばこうだ。旦那様は鳥の皮がお嫌い。奥様はこの世の何よりも小さな羽虫が怖い。その奥様の鏡台に芋虫を忍ばせたのは、一番上の坊ちゃま。一番上の坊ちゃまはいたずら者で、いつも末の坊ちゃまを巻き込もうとする。
そして二番めの坊ちゃまは――と、ここでメイドたちは当惑顔になる。
彼女たちは口々に言う。
――あれは変わった子だよ。
――聞いた? また家庭教師が辞めていったそうよ。いったい何人辞めさせるおつもりなのかしら?
――旦那様に怒鳴られても平然としているもの。怖い子よ。
彼は、家庭教師の先生におかしな質問をして困らせるらしい。たとえば、「人は死んだらどうなるのか」「死んだら肉体は腐るというが、腐らせない方法はあるか。また、その逆に腐るのを早める方法はあるか」「生命とはどこから来てどこへ行くのか」「人によって見えるものが違うのはなぜか」。それから、そう、「男と女は何をどのようにするのか」といったものもあったそうだ。
この最後の質問をされた教師は、真っ赤になって怒ったそうだ。大人をからかうなど性悪な子どもだと言い、危うく鞭をくれるところだったと聞いた。
エレミアには、坊ちゃまがこの先生の言うような性悪な子だとはとても思えない。確かに、九つや十の子にしては異様なことを言うお方だけれども、彼の瞳はまっさらに澄んでいた。
二番めの坊ちゃまは、奥様に似て大変に整った顔立ちの少年だった。もっとも、「愛らしい」と表現するには難のあるお顔でもあった。彼は時折ひどく冷たく、こちらの心情を見透かすかのように見つめてくる。この目つきが、年かさのメイドたちには怖いらしい。
彼はメイドや庭師の後ろから仕事ぶりをじっと眺めていることがあった。どうしましたかと問えば、決まってこう答えた。
――お前が何をしているのか知りたい。
お掃除ですというと、その詳しい内容を知りたがる。この時の質問も奇妙で、石鹸に含まれている成分は何かだとか、ブラシで擦ったらどんな現象が起こるのかだとかいったことを訊く。
メイドたちはそんなもの答えられないから、曖昧に笑って濁す。それが彼には不満らしい。例の冷たい目つきで、黙って見つめる。
――嫌だよ。この世のすべてを知りたいとでもいうのかね。気味の悪い。
口の悪いメイドなどはそう言った。
こんなこともあった。二番めの坊ちゃまが厨房にやってきて、料理というものをやってみたいから教えろという。
貴族の坊ちゃまにまさかそんなことはさせられない。料理長は断ったが、坊ちゃまも退かず、最後には一度だけと断って教えたのだそうだ。
彼は奥様に似ているといったが、どうもそれは容姿だけの話で、奥様はこの二番めのぼっちゃまをあからさまに避けていた。ほかの坊ちゃまのことはかわいがるのに、彼とはほとんど口も利かない。理由はもしかしたら、家庭教師たちが辞めていったことや、あるいはメイドたちが嫌がったことと同じなのかもしれない。
性悪だと思ったか、あるいは、薄気味が悪かったのか。
エレミアにとって旦那様や奥様、坊ちゃまがたというのは、同じお屋敷に暮らしていても遠い方々だった。一介のメイドが彼らの人生に関わろうはずもない。であるから、彼がいつしか家庭教師の授業から外され、おひとりで何時間も本を読んでいるようになっても、そういうものかとただ眺めていただけだったのだが。
十六になった年のこと、エレミアは突然彼の部屋に呼び出された。彼の部屋の担当は別のメイドだし、個人的な用事を言いつけられたこともない。大きな失敗をした覚えもないし、いったいなんだろう。首を傾げながらエレミアが行くと、彼は思いもよらないことを言い出した。
「お前と契約したい」
「契約……と、おっしゃいますと?」
訊き返すと、彼はさらにとんでもないことを続けた。
「夜の相手をしてほしい」
エレミアは目が点になった。若いメイドに主人が手をつけるのは、実際ままあることだ。だが、彼はまだ十三のはずである。おまけに彼にはそういう話につきもののいやらしさが微塵もなかった。普段とまるで変わらぬ冷ややかな調子で、さらりとそれを言ってのけた。
彼が提示した金額は、現在の給金の二倍であった。これを毎月払うという。つまり、ひと月に入る金額が一気に三倍になるというわけだ。
「期間は一年か、二年か、決めてはいないがそのくらいだろう。必要であればその後の生活の面倒も見る。悪い話ではないと思う。もし不満があるなら、交渉には応じる」
彼はあくまで事務的に告げた。なるほど悪い話ではない。ただし、感情を抜きにすればの話である。
エレミアとて若い娘であったから、いつかは誰かと結ばれるのだろうと淡い夢を抱いてはいた。それがこのようなかたちで急展開があろうとは、誰が想像するだろう。
それにしても、疑問でならない。
「あの、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「なんだ」
「そのようなことをなされば、旦那様がお怒りになるのでは?」
「お前には咎が及ばぬようにする。その点は心配するな」
自分に怒りが向くことに関しては、承知の上なのだろうか。気にもかけぬ様子で、彼は言った。
「なぜ私なのです?」
「知っている中では、最も賢明に見える」
この答えを喜ぶべきなのかどうか、エレミアにはわからない。少なくとも恋情のためでないことはよくわかった。
「ですが、その、恐れながら坊ちゃまはまだお若くていらっしゃいます。何もいまそのようなことをなさらずとも、お年頃になればいくらでもふさわしいご婦人が……」
彼はため息をついた。
「いつでも年齢が足かせになるのだな。私はふさわしい婦人が欲しいわけではない。本で学べることは学んでしまったから、実物が知りたいというだけだ。残念ながら私の年齢では娼館には入れぬから、こうしてお前と交渉している」
物凄いことを言うものだ。
大人びている――このひとことで済ますには、老成しすぎている。振り返れば幼い時分から彼はこうだった。子どもらしい無邪気や、天真爛漫とは、縁のないお方である。
「乱暴はしない。お前を傷つけるようなことは避けるつもりだ。いまのところそういったことには興味はないし、もし興味が湧いたら別の相手を探す」
彼は言った。
女を前にして別の相手を探すとは、ずいぶんな言い草である。けれども、だからこそかえって彼がなんの裏もなく、言葉通りに知識欲で言っているのがエレミアにはわかった。
この時点で、彼は小柄なエレミアよりも背が高かった。端整な美貌はますます磨きがかかって、大人になったらさぞや上流階級の娘たちを騒がせるだろうと思われた。もっとも彼の場合は、違った意味で騒がせそうな片鱗もそこかしこにあったが。
エレミアは彼を好きでも嫌いでもない。が、興味はあった。ひそかに気にしていたことが、ひとつあったのだ。
――お寂しくはないのかしら。
奥様にも旦那様にも見放されているような坊ちゃまである。お慰めした方がいいのかもしれないと、根の優しいエレミアは思ったのだ。
むろん、根は優しくとも苦労をしてきた娘であるから、現実的に考えもする。エレミアは自分の貞操と彼が約束した報酬とを天秤にかけ、悪くないと結論を下した。
「わかりました。お話お受けいたします」
こうして彼女は、公爵家の次男と契約することとなった。
恋人としての彼は――いや、こんな言い方はやめよう。彼は恋人ではない。ベッドでの彼は、冷淡で、確かめるかのように触れてきた。エレミアは初めてであったが、覚悟していた破瓜の痛みも少なく、終わってみれば恍惚の中にいた。
彼が上手だったのだろう。が、当人の言葉通りならば、彼も初めてのはずである。終始落ち着いて冷静な様子からは、とてもそうは思えなかったが。
起き上がろうとしたが、身体が重い。エレミアは彼に願い出た。
「このまま休んでも構わないでしょうか。動けそうにありませんので」
ここは彼の部屋である。
彼は横目でエレミアを一瞥し、頷いた。
「次はお前の部屋にしよう」
夜中にエレミアがふと目を覚ますと、彼は起きていた。静かに天井を見上げ、何ごとか考えているようだった。
次の時からはエレミアの部屋に彼が来て、終わると出ていくようになった。「次はお前の部屋にしよう」とは、つまり「寝る時はひとりで寝たい」という意味だったのだろう。
彼と過ごすうちに、エレミアにもわかってきた。彼は孤独だった。ただしそれは、彼女が想像していた類のものとは違った。父親の叱責や母親の無関心は、彼にとっては些末な問題だった。彼が抱えていたのは、もっと根源的な孤独だった。
知りたいと願う欲、家庭教師の先生がたを困らせる質問の数々、上手くいかない両親との関係。奥様も旦那様も、彼が六歳であった頃には六歳のように扱い、九歳であった頃には九歳のように扱った。その度に彼はあの澄んだ漆黒の瞳で両親を見つめ返し、無言で考えていた。
――なぜこうも話が通じぬのだろう。
その答えはおそらく、「彼が子どもだから」。
人々が見ているのは「十三歳の子ども」であって、彼自身ではない。旦那様も、奥様も、家庭教師の先生がたも、召使たちも、みな彼を理解できなかった。まさか幼い少年が、自分たちをはるかに凌駕する能力を持っているとは、考えもしなかったのだ。
幼い身体の中に閉じ込められた、明晰すぎる頭脳と、成熟しすぎた精神。孤独と、不自由と、苦悩と、秘めた激しい怒り。
関係が始まって三年が経つ頃、彼は突然お屋敷を出ていった。
といっても、旦那様や奥様にはきちんと筋を通していたらしい。王都に行ったという話だった。
突然だったのは、エレミアに対してだ。どこへ行くのか、いつ戻るのかも言わず、別れのあいさつひとつなかった。彼との間にあったものが愛ではないという、確かな証拠だろう。
エレミアとて彼を愛していたわけではない。ただ、情はあった。あの方がこの先どのような人生を歩むのか案じてすらいた。そしてやはり、さようならくらいは言ってほしかった。
彼女自身は誰にも話していなかったが、彼との関係を察している同僚たちも多くいた。寂しいでしょうと慰めてくる者があり、遊ばれていたのだと陰で嗤う者があった。だが、旦那様や奥様からは何も言われなかった。
それから数か月して、王都から手紙が届いた。契約は終了とするが、自分を頼りたい事柄があれば連絡するようにと、彼らしい事務的な口調で書かれていた。
返事は出さなかった。彼には頼らないことにしようと決めた。これまでに受け取った報酬で充分な蓄えはできた。これからどんな人生が待っているにせよ、きっとやっていけるだろう。
エレミアは公爵家の仕事を辞めた。未練はなかった。
幸いにして新しい勤め先はすぐに見つかった。新しい旦那様や奥様は親しみやすいお方で、かわいらしいお嬢様がひとりいた。そこで働くうちに恋人ができ、ささやかながら祝福されて所帯を持った。
公爵家を出てから十年余り経ったある日、彼の噂を聞いた。その頃には彼は重要な地位にあり、王都のみならず地方にも名を知られる立場にあった。噂が流れてくること自体は不思議ではない。エレミアを驚かせたのはその内容で、彼が結婚し、子どもが生まれたというものだった。
――あの方が、ご結婚。
にわかには信じがたい。幼くしてあのように冷ややかだった男が、家庭など持てるものなのだろうか。まして子どもとは。
エレミアと関係していた当時、彼はその点に関してまことに慎重だった。行為後に服用する避妊薬を持参し、彼女が飲むのを見届けた。もし避妊に失敗し、エレミアが身ごもっていたとしたら、ためらいなく堕胎させていただろう。子どもなど望んでもいなかったはずだ。
身分を気にしてではない。彼はそういう男だったのだ。
だが、奥様とは子を生しても構わなかったのだろうか。奥様を、愛しているのだろうか。
人は、そうまで変わるものなのだろうか。
エレミアは長いことそれを考えていたが、ついに答えは出なかった。案じるのは彼の子のことだった。もしもその子が彼の性質を色濃く継いだとしたら……。
だが、それは彼女の憂うべきことではなかった。彼女自身にも既に子がいて、あの頃とは違う人生を生きていた。
きっとそれは、彼も同じなのだ。
創作の世界で「ギフテッド」が描かれることも増えてきたのかなとAmazonさんを見ながら思っていたんですが、どうも納得いかないというか、そんなにキレイなもんじゃねえよと思ったりします。
「周囲とあまりにも能力(または、ものの考え方)が違う」って、少なくとも子どもの頃にはけっこう不幸になりがちじゃないかな。
親次第ですけどね。
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