【小説】 猫と手紙 第15話
第15話
誕生日にカレーが食べたいという彼女の為に、前日にカレーを作った。
一応遠慮でもしているのかと思い、違うものでも作るよ。と言ったけれど、彼女は誕生日も同じカレーを食べたいと言った。
カレーなのが重要だと言っていた。彼女には何かこだわりがあるらしい。
今日は、あの川沿いのベンチで待ち合わせをしていた。
約束の時間にはまだ随分と余裕があった。
早めに家を出た僕は、いつも行く事のない花屋に立ち寄った。
誕生日の彼女に花くらい渡しても良いかな。そう思ったからだ。
店に入ると、彼女の香りがふわりと漂ってきた。
香りが漂ってくる先にあったのは、鉢に入った白く可愛らしい花だった。
彼女がそこにいた訳では無い。
そうだ。
僕の好きな香りの花の名前は、ジャスミンだ。
僕は迷うことなくこの花にしようと決めた。
彼女からほのかに漂ってくる香りと同じ花を買った。
花に囲まれていると母の事を思い出す。
母はよく家に花を飾っていた。
スッキリと整えられた部屋のあちらこちらに、色とりどりの花が飾られていた。
そんな母とは、モデルの仕事を本格的に始めてからは当分の間会っていない。
中学生になって撮影モデルもしなくなってからは、母ともあまり話さなくなった。何を話したら良いのか分からない。
モデルの仕事を本格的に始めて、ひとり暮らしになると様子が気になったのか、母からは電話が度々かかってきていた。出ないでいると、そのうちに電話はかかって来なくなった。
その代わりに手紙が届く様になった。メールなどではなく、手紙だった。
『元気にしていますか』や、『仕事は順調ですか』など、僕を心配して気に掛ける言葉が並んでいた。
けれど僕は、母からの手紙に返事を書くことは無かった。いろいろ僕に聞いてくる文章を煩わしくさえ感じた。
僕は思いを上手く言葉にするのが苦手だった。
言葉というのは繊細で、選び方を間違えると人を故意なく傷つける。
僕はどの言葉を選べば良いのか分からなかった。
でも、彼女と出会って、
今なら良い言葉を選べる気がした。
初めて僕は母に、手紙を書こうと思った。
花屋でそんな決意を固めていた。
程なくして彼女と合流した。
僕は会ってすぐに彼女に花を渡した。
「良い香りだったから」そう言って、彼女の目の前に差し出した。
彼女は嬉しそうだった。
彼女に喜んで貰えるのが僕は嬉しかった。
けれど、重たいから後で渡せば良かった。
と少し後悔した。とにかく花を渡す事で頭がいっぱいだった。
僕は多分、余裕が無かった。
彼女はそういった僕の後悔をよそに、とてもご機嫌だった。
僕は何かとても満ち足りた気分だった。
その時、僕は僕にずっと足りなかったものを少し思い出した気がした。
幼い頃、僕は母に喜んでもらう方法をいつもずっと考えていた。
それで一生懸命頑張ってきた。喜んでもらえるのが嬉しかった。
けれど、少し寂しかった。
僕の本当の気持ちを分かって欲しかった。
母に、僕ならモデルだけじゃなくカレー屋になれると言って欲しかった。
カレー屋に、どうしてもなりたかったわけでは無い。
そして、モデルになりたかった訳でも無い。ただ僕の気持ちをもっと分かって欲しかった。
僕は母に、怒りに似た感情を抱いていたのかも知れない。
僕の本当の気持ちを、分かってくれないと駄々をこねる子供だった。
けれど全てそういうものは言葉に出来ずに、胸のずっと奥の方に押し込めていた。
ただ、気づいて欲しかった。
僕はあの頃、わがままを言わない様に気を付けていた。
あの頃の僕は、母の前では何でも上手に出来るお兄さんじゃないといけない気がしていたから。