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異国の風が運んだ記憶

 先週、インドのパキスタンとの境目近くにあるラージャスターン州から「ジャイサルメール・ビーツ」という音楽集団が来日しました。最初の京都公演の評判をSNSで知り、聴きに行きたいと思いました。
 長年踊り手として彼らと活動を共にして来たマドゥさんによると、彼らは音楽カーストのようなもので、その家系に生まれた男性は皆、音楽を生業とするのだそうです。
 ここでは、その公演を実際に聴きに行く前に、それに興味を持った理由から考え連ねたことをまとめました。

 家や血筋にさだめられた生業...少し事情は異なりますが、18世紀にバロック音楽をその超絶技巧で華やげた伝説的オペラ歌手ファリネッリの半生を描いたイタリア映画『カストラート』を思い出しました。



 そういえば、先日テレビをつけたらちょうど見覚えのある時代劇の場面が映り、『武士の家計簿』だったんです。奇しくもたしか2012年の夏頃に同じようにテレビで偶然観て、随分と泣いたことを思い出しました。
 磯田道史さんが神田の古書店で入手した史料から研究して出版された書籍が、このように映画になったということ、史実と史料と想像と創造の繋がりを考えさせられる作品でもあります。
 原作の、古書店で史料が他の人に買われる前に何とか間に合うかとお金を持って行く過程なども面白く記憶しているのですが、代々その家に生まれた者はそろばん侍...算用方になる猪山家。家族のあり方、仕事の仕方、家庭教育、節倹生活...などなど、映画として観ることで、様々な記憶が喚起されました。BGMも、意図的なのか、基本的にピアノによる静かな主題曲のみが要所要所に使われていて、質実剛健な生活が伝わって来ました。

 私、子供の頃に親に何の気なく「家(うち)にも継ぐ家業があったら良いのになぁ」と言ったらしく、母はそれを聞き成る程と思い後に或る自営業を始めたのだと、大人になってから聞かされました。一時期その仕事を手伝っていたのですが、それをふと思い出しました。その仕事は自分に向いていた気もします。
 自分で道を選べる自由が、不完全ながらも...やはりまだ諸々の所与の条件によって限りのある制度にせよ実現されている社会に生きながら、生まれた家にさだめられた職業に特化した教育訓練を受けることでしか到達し得ない領域などに憧れを抱いていたのかもしれません。自ら選ぶというのも、大変です。

 大高洋夫さんが世界一暑いとされるアファール三角地帯を訪問した際の、駱駝の背に採集した塩を載せキャラバンを組み長距離を行く一族のドキュメンタリー映像でも、族長の迷いのない鋭くも優しい眼差しと、神に与えられたものなので別の地で他の仕事をしたいとは思わぬという静かな語りが印象的でした。

 国内でも本当に機会の平等が達せられるよう一層制度設計をして行かねばならないでしょうし、世界を見ればカーストなどの問題もあると思いますので、ここではそこまでは踏み込みません。上記はあくまで私自身の周辺に関して思い出して少し記録に残しておきたくなった呟きということで、ご容赦ください。

 途上国の子供たちに映画を届ける活動をしているNPO法人World Theater Project関連の書籍か何かで見ましたが、医師や教師になりたい子供たちは多く、それは立派なことだけれど、それ以外の職業を知らぬのではないか、映画を観ることで視野が広がるのではないか...という趣旨が述べられていました。
 視野を広げる、世界に目を向ける、まだ知らぬ自らの可能性に気付く、等の膳立ては大事ですが、同時に、彼らが自らの置かれた状況で問題解決の為にこれをやりたいと見出だしているならば、その動機は強く、したがって動機があやふやな子供の夢よりも達成されやすく、かつ真摯なものであるかもしれません。
 念の為...書籍を完全に読んだ訳ではないので、批判している訳ではありません。この活動の趣旨を知り、映画にはたしかにそのような力があるなぁと感銘を受けました。私は、途上国の子供たちに限らず、現在時間やお金や気持ちや体力の余裕の無い方々こそ今映画に触れられたら良いだろうと考えています。

 選択が個人に委ねられているといっても、国内では、これをやりたいと希望している者に対して、それは狭き門だから、とかこちらの分野の方が人手不足だから、とかその程度の動機では面接に受かりにくいから、などの浅はかな助言をして方向付けをしたり情報過多に陥らせたりして失敗させてしまうこともあります。また、これは、大学教育が高額であるにも関わらず一般的にギャップイヤーを許さずに即進学することが推奨されているため、学力以前にお金を出す者の顔色を伺い同意を得ねば進学できないという制度がもたらしている問題でもあります。人を育てるのは難しいですね。
 日本でこれだけ労働環境が不安定になり、非正規労働者の犠牲によって社会が成り立って来た昨今。そのつけを今払っているのだから、他人事にせず余裕のある人は皆で考えて行かねばならぬ問題だと私は考えています。けれども、大卒以上の学歴を持っていてもやはり難しいことやネガティブな要素のあることを考えたくない人はいるので、そのような人々に無理に求めることはしません。
 たとえ失敗したとしても、長年あたためてきた己の志に従って努力し挑戦した結果そうなったのであれば、本人も精神的に責任が取りやすいですし、努力し挑戦した過程で必ず何か他の人にない本人らしい能力や性質が磨かれているのだと思います。一方、もし、本人が勇気を出して打ち明けた志を夢想的で一時的な気の迷いだとでもいうように却下して親や社会の求める方向に従わせたとして、その結果耐えきれなくなって脱落した時、本人は社会から自己責任論を押し付けられて苦しみを誰にも打ち明けられず、また失敗するまでの過程で自らの求める道や適性を見失っているので、やり直しが特に困難で長い道のりになります。
 労働市場における戦いは一層激しさを増すでしょう。これまでのように、部活で何をしたか、友達と良い関係を築いているか...というようなコミュニケーション面の安全さばかりを求める採用は減り、学歴と実力がますます重視され、何をできるのかを厳しく問われて行くことになるでしょう。深い愛情や成熟した教養の少ない大人の方針に従って道を誤り自分を見失った者が生きる道が、今後は一層少なくなって行くのではないでしょうか。何があったとしても自己責任を求めるのなら、継ぐ家業が特に無いサラリーマンの家庭においては、進路にまつわる上の世代の価値観を下の世代に押し付けて行くことを止める必要があると私は考えます。

 でも、もっと大事なことは、こうなる前に置き去りにされた、これまで苦しい立場で社会を支えてくれた人々への恩返しと贖罪をすることです。置き去りにされた大人たちを救うことは、その人たちが下の世代を慈しみ助け育てられるような土壌を耕すことに繋がると私は思っています。それなくして下の世代だけをー私もまだその部類に入っているひとりとしてー優遇することは、社会にとって良くないことです。過ちから学んで制度を立て直し新世代を良い道へ導くことと、問題が検討され始めるまでの過程で犠牲になった人々を救い償うことは、両輪でやらねばならないと、私は考えるのです。

 そして、最後にもっと大切なことは、まずは自分が己を省みて思考や行動を直すことです。これは、私自身に対して言い聞かせていることです。誰かに変わって欲しいと思うことはとても苦しいことですが、自分が今目の前にある人生に真面目に取り組んで、誠実に周りの人々と接して協力して働いて行けば、その姿を見て、人はカテゴリーという垣根を越えて私という存在を捉えてくれました。そしてそれは、当初私を分類していたあるカテゴリーに対するその人の価値観が変わることにも繋がるのだろうと思います。
 直接誰かに変わって貰おうとするのでなく、まず自分が自分の人生をしっかりと見つめて取るべき行動を臆せず取って行くこと。とても勇気と根気が要るけれど、これが最も大切な姿勢なのだろうと、私は今改めて考えています。

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