寝ても覚めてもヒコロヒーのことを考えている


超特大かつ局所的ヒコロヒーブームが私の半径30センチ圏内で巻き起こっており、寝る前にはヒコロヒーのBRUTUS連載エッセイを読み、移動中はヒコロヒーのツイッターが更新されていないか目を通し (大抵は告知のリポストばかりが並んでいる)、我慢できなくなった時には読み終わるのが勿体無いから毎日一編ずつ消費している「きれはし」を読み進めるといった感じの日々を送っている。こんなにヒコロヒーを追っかけてるの、日本で唯一、私一人じゃない?


本日はBRUTUS連載記事について。


ヒコロヒーは2021年の9月から、「直感的社会論」というタイトルのエッセイを月に一度の感覚でBRUTUSにて連載しています。これがまた読み応えがあって面白い。夕ご飯食べ終わった後ほろよいとか飲みながらダラ〜っと読むのにとてもちょうどいい。


「直感的社会論」とかいうタイトルだから、小難しい内容なのかなと思いきや、目の付け所がやっぱヒコロヒーって感じだ。第一回目の「なぜ自己啓発系の本はどれも、2ページ目にはジョギングをおすすめしてくるのか」からもう、わかる〜〜ってなるのが悔しかった。


どの記事もおもしろおかしく、たまに共感できる塩梅が「ちょうどいい」んだけど、私は特に、各記事におけるヒコロヒーの結びの文章が逸脱でとても好き。以下いくつか抜粋:


その他にも啓発書に大体書かれてあるのは、瞑想をするべし、タスクは午前中に済ませる、プライベートとの切り替えをしっかり、など、どれも私みたいな人間が到底できないことばかりである。(中略)それでもしぶとく借り続けるのは、いつか自分にもできそうな、手っ取り早くてしんどくなくて楽にできる方法論が書かれているものに出会いたいからであり、こんな思考回路の時点で「成功する人間」とは程遠いのだろうと、また小さく破るように自分を諦めていくのである。


「言葉」は磁石のようなもので、言語化できぬ曖昧な感情は一つの言葉のみに吸着されてしまいがちである。あれも、これも、それも、どれもが「マウント」に終始しかねない現代において、受けには鈍感に、攻めには敏感にしてなんとかサバイブしていきたい。


もちろん、誰もが忙しく、自分に精一杯な社会である。いちいち丁寧に自分の考えや感情の内訳を明確にして相手に放り投げ続けることが難しいことも承知の上だ。 しかし私は、目の前の相手が考え、思っている事が何なのかを常にきちんと知りたいと願うようにして思っている。使いやすい言葉を用いて何かを裁いたり評したつもりになることなく、それを発するのであれば、その詳細を明らかにしておいてほしいと考えることもまた「尖っている」のだろうか。


別にファンってわけじゃないし、積極的に友達になりたいタイプでもないんだけど (深く関わったらネタにされそうだし)、追いかけるのがやめらんね〜。忙しい中BRUTUSの連載持ってるのだけでもすごいんだけどほんとはもっとヒコロヒーの文章浴びてぇよ〜。ツイッターもっと頻繁に呟いてくれんかな。


きれはし


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全人類「きれはし」を読め。


(こういう主語がデカくてネットで多用されるスラング的言葉遣い、ヒコロヒーは絶対にしなそうだなと思うのである)


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