2022.3.7 ボルシチ、いま自分ができること
ロシア料理と思われているボルシチ。実はそのルーツはウクライナです。本場ではサロと呼ばれる豚の塩漬けと真っ赤なビーツ、そしてにんにくと一緒に塩漬けしたハーブを入れると本で読みました。
日本人がボルシチと聞いてイメージするビーフシチュー的なものではなく、むしろミネストローネみたいな、さっぱりしたスープです。にんにくとハーブを後入れするから香りも華やか。レシピは、荻野恭子さん『ロシアのスープ』をアレンジしました。
世界が大きく揺れています。戦争のような大きなことになると、いち生活者である私たちにはお手上げです。ネットで声を上げたりデモをすることに対して、そんなの力にならないさ、という声も見かけます。じゃあ、私たちは何もできないのでしょうか。王様の耳はロバの耳!と言われてまったく恥じらわない王様の国では、みんな無気力になってしまいます。
私たち市民にできる、少し遠回りだけれど唯一のことは、言葉を発する前に、きちんと暮らすということだなとつねづね思うのです。「きちんと暮らす」は少し説明が必要ですね。「ていねいな暮らし」とも「意識高い暮らし」ともちょっとニュアンスが違います。
たとえば日本人はボルシチを赤いビーフシチューぐらいにしか認識していませんよね。人の国のことってそんなものです。でもスープ一皿にも各々の国が持つ文化や風土があります。ボルシチを作るのはたぶん普通の主婦で、毎日政治のことなんか考えていません。ただ、それぞれの家庭に、うちではこれを入れるのよというちょっとしたこだわりや、親から受け継いだ味があったりします。家族の反応を見たり食材をやりくりしながら主婦は料理をする。この小さな日々の集積が、動かしがたい国の味になっています。
国境は施政者が決めたもの。でもスープに何を入れるかは暮らす人が決めたもの。誰も簡単には変えられません。
言葉のないところで私たちの守るべきもの、大切にしなくてはならないものを伝えられる。これが暮らしの力であり、私たちが「きちんと暮らす」意味もそこにあります。綺麗事だけで暮らしは立ち行かないし、だからこそ暮らしをまっすぐみつめる人が増えると、言葉にも重みが増します。適当なことばで相手を言いくるめてきた人たちにも軽々しく扱えなくなるし、適当に国境の線を引くことはできなくなってきます。
その反対に生活の上であまり合理主義に偏ると、さまざまなことが自動化されて(だから楽にもなるのですが)、感覚が鈍り、自分たちがほんとうは何を大事にしたいのかがわからなくなってしまいます。その結果、まことしやかな作り話をする大きな力にのっとられる。そんなの嫌ですよね。
食洗器を使うようになった今も、ときどき汚れた器を手で洗います。キュッキュッと力をこめて。泡の向こうに隠れた汚れをこするように。遠い国の戦いとは全く関係ないような行為が実はどこかでつながっているということを心のどこかで思いながら。