添削屋「ミサキさん」の考察|42|『文章の書き方』を読んでみた⑫
――触る感覚について
石川淳『焼跡のイエス』より。
「この作品では、主人公と少年の間に言葉の交流はいっさいありません。あるのは肉体のぶつかりあいだけです。人間同士の会話はなく、あるのは原初のぶつかりあいです。……読者を『もうたくさんだ』という思いにさせておいて、ふいに、作者は書くのです。その手首が『おもひのほか肌理(きめ)がこまかで』『なめらかな皮膚の感触であつた』と。」
個人的な希望ですが、私はいわゆるアクション、あるいは身体感覚をきちんと描ける物書きになりたいと思っています。現代のミステリ、サスペンス、ハードボイルド、ノアールなどには、アクションや身体感覚の凄まじい描写が多いですね。枚挙にいとまがありません。
わりと、そういう迫力のあるものを読むのも好きだし、自分でもうまく書きたいのですが、私自身はかなり非アクティブなほうです。運動神経もかなり悪いし。
それはそうと、先の『焼跡のイエス』。想像すると背筋がぞわっとするような汚濁にまみれた少年(戦中戦後にはこういう少年がたくさんいたのでしょう)、他方その少年の肌のなめらかさ、少年らしさ。この対比が見事ですね。
――聴覚について
ジャーナリスト・疋田桂一郎の文章。
森の中の音と都会の音、近い音と遠い音という観点で分析的に表現していますね。なるほど、確かにそうだな、と思わされます。いわば、「音の観察」でしょうか。
また、引用した辰濃さんは、次のように言います。
「これだけさまざまな音のことを書きながら、筆者はオノマトペを一回も使っていません。オノマトペというのは、サラサラ流れる、ヒュウヒュウ風が吹くというときのサラサラ、ヒュウヒュウにあたるものです。擬声語、擬態語のことです。この文章の場合は、ひとつの音にだけ擬声語を入れたら、そこだけが浮いてしまうでしょう。オノマトペがまったく使われていない分だけ、読者の想像力をかきたててくれます。北関東の森に連れていってくれます。……」
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