動揺
私は動揺した。虫が這う、地面の下に、埋められた子供のように。宇宙空間に投げ出されて、神に出会った、宇宙飛行士のように。本当に心が、心臓が左右に揺れ動くことがあるのだと、少し俯瞰的になってみても、揺れは少しも落ち着かない。わけもなく助けてくれと叫びたくなるが、誰かが駆けつけて来てくれても、世間から見たら私は普通なのだ。心に少しだけ芸術を抱えた定年退職目前のサラリーマンである私は、世間から見たらただの一般人だ。世間じゃなくてもそうだろう。妻から見ても、子供から見ても、同僚から見ても、私はただの一般人だ。私から見てもそうだ。そして私はそれで満足していた。それで満足していたというよりかは、それが幸福で、心地良かった。私は特別になりたくなかった。誰だってそうだろう。小学校や中学校が好きだった。まあ、いじめられっ子やいじめっ子になりたくないと、日々ドキドキしていたが。それでも好きだった。私が、不平不満の一つも漏らさないので、親は……親は逆に心配した。それから私は少し先生の悪口を言ってみたり、友達に会いたくないと言ってみたりした。その親が死んだらしい。二人とも死んだらしい。母は持病で入院していたので覚悟ができていた。父は心臓発作らしい。私はこれから母と父の死体を見て、葬儀場を選び、喪主になり……今、私の目からは多量の涙が溢れている。滝のような涙が、精神と体が完全に離れるくらいに動揺している。誰だってそうなのか? 親が同時に死んだらこうなるのか? 電話越しに慰めが聞こえる。
夜があけた。私はまだ動揺している。動揺に加えて、喪失感も襲ってきた。妻も子供も泣いた。だが泣き止んだ。だが私は泣き止むことができない。助けてくれ。助けを呼ぶと、妻か子供が私に寄り添って共に泣いてくれるだろう。だが、その慰めでは足りないくらいの動揺と喪失感が、今の私を作っているのだ。これから一年、二年、三年経ったらこの喪失感もなくなるのだろうか。災害や人災で家族を亡くした方のニュースはたまに流れているが、その方達は十年経っても二十年経ってもその家族を思い続け、動揺を鮮明に思い出し、喪失感を味わい続けている。だが、私が参加した葬式は、仕方がないとか、最後は一緒にいれて良かったとか、今日は来てくれてありがとうだとか、そんな言葉ばかり溢れていた。それが普通なのか? リビングから葬式のCMの音が聞こえる。私は怒りを覚えた。明るい女性の声が聞こえてくる。明るい女性の声が安い葬式について語っている。妻が葬式はどうしようと言っている。ああ、私は普通じゃないのだろうか。多分、そういう団体もあるのかもしれない。遺族を亡くした人を支援するような団体が。その団体の人間は私に、それはおかしくないことだと、普通のことだと言うだろう。だが、私にとって普通でなければ意味がないのだ。あの電話を取った時から、母と父の死に顔が、私の視界を覆うことがある。それが恐ろしくて恐ろしくてたまらない。逃げることもできない。助けてくれ。
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