矢代という人

※以下はあくまで「囀る鳥は羽ばたかない」という漫画の主人公である「矢代」の人物解釈と考察であるため、実際の性被害に遭われた方についての意見・考察ではないこと、予めご了承ください。

ヨネダ先生のインタビューから、もともと囀るは最初から矢代を主人公として作られたのではなく、影山と久我をメインにした短編からのスピンオフだった。矢代という登場人物に面白みを感じて、改めて主人公としてのシリーズを始めるにあたり、まず矢代という人物の背景を設定するというのが「漂えど・・」となり、その後で囀る本編は始まっている。

どMで淫乱で超美形のヤクザが何を経てそういった人物になったのか。囀るが始まった当初のBLでは、矢代のような過酷な背景(小学生の少年が、母親の再婚相手にレイプされる)を持つ人物設定はそう珍しいものではなかったのかもしれないが、昨今ではかなりシビアでデリケートな内容だ。

私自身は海外ドラマが好きなので、「LAW AND ORDER 性犯罪特捜班」をはじめとした特にアメリカの犯罪捜査ものをよく見ているが、日本よりかなり頻繁に男女年齢問わずレイプ犯罪とそのリアルな被害の描写が出てきて、しばしば目を覆いたくなくる。日本でもレイプ被害に遭った人の告白手記などが開示される機会が増えてきたが、いずれにしても被害者のメンタルは過酷極まりないだろう。心を蝕み続ける闇を打ち明けられず、孤独に苦しみ続ける人は多く、特に幼少期に被害を受けた人の精神状態の過酷さや苦しみは、被害を受けていない人が到底想像しうるものではないだろう。その被害者の中には男性も含まれる。

性犯罪は被害者の人としての尊厳を奪い、精神に多大なダメージを与える。痴漢にあった時ですら生理的な嫌悪感と心の傷は深いのに、いわんや、だ。被害者がアルコール、薬物、その他の依存、最終的に死を選ぶ人が少なくないのも理解できる。

(ただし、あくまでフィクションとして)この作品では、そういった過酷な背景を持つと設定された矢代が、成長するにあたって生きるために身につけたのが「どMで淫乱」という「自分」という「鎧」だった。その役柄を「演じる」ことでサバイブしたのだ。

生命の危機に関わるようなダメージを受け続け、自分の母親さえもそれを助けようともせず、むしろ目を背け矢代を捨てた。それでも幼い子供が生き残るために選んだ道は、自らが受けた最悪の行為を「自分自身が好んで行うもの」として受け入れることだ。

否定すれば背後には死という崖が迫っている。ならば、逆にそれを肯定し、むしろ積極的にそういう状況に入り込むことで、「自分は悲惨ではない。死を選ぶ必要はない」と自分に言い聞かせ、信じることで自分を保とうとするのだ。

「漂えど・・・」の冒頭の矢代のモノローグで自分の性癖と状況を「これは俺が自ら望んでこうなったもので 間違っても家庭内暴力などの辛気臭い類のものではない」と語っているが、これは矢代が生きるために自分自身を守って無意識のうちに「そういう自分を演じる」ようになったのだ。

矢代が「どMで淫乱」を「演じている」というのは、度々自分や他者が「演技」として自分の役割を生きているという例えを引き合いに出すことに表れていると思われる。

生存本能として「幼い時から男にレイプされ続ける」という過酷な状況を、それを「自ら好む人間」として演じ続けることで生き延びてきたのが矢代という人なのだ。なんと苛烈な人物設定であることか。

矢代自身が、ドMで淫乱な自分の性癖が「実は生来のものではない」と自認しているのは、「漂えど・・・」のモノローグにも現れている。自分はゲイではない、だから義父に犯され続けるのも、適当な男と寝るのも、生来好んでやっているものではない。そう植え付けられ、そう演じているからだ。普段仮面の下に押し込めている感情も完全には隠しきれず、否応なしに滲み出てしまう。

もちろん、成長の早い段階でそういった行為を刷り込まれ、自分自身がそういう人間だと思い込むことで、どこまでが「演技」でどこが「生来」のものなのか境界はあやふやになっているかもしれない。しかし、影山を好きになり、その感情を自己認識することで「演技をしている自分」に歪みが生じ、仮面が剥がれてくる。

男に欲情するのは、義父に刷り込まれた汚れたもののはずなのに、自分はそれを自分の本当の意思とは関係なく受け入れるしかなかったはずなのに、愛するのは「男」で、結果としてその対象に欲情を感じてしまう。誰かを「好きになる」ということは、誰かを愛して欲するということは、それも汚れた醜いものなのか。心の底から欲しいものが、美しくあるべきものが、何よりも嫌悪するものと同じなのか。

義父から受けた忌まわしい行為と同じものを、本当は自分は望んでいるということなのか。ならば鎧を着て闘ってきたこれまでの自分はなんだったのか。自分はただのドンキホーテだったのか。

その忌まわしい行為と愛する気持ちの絶頂の瞬間がリンクしてしまったのが、5巻で脳裏をよぎった細い襖の隙間とカーテンの隙間から漏れる光だったのだろう。

矢代はゲイであることを認めたくないのではない。義父が自分に行ったことと同じこと、自分の中で生きるために闘ってきたこと、それが誰かを愛するという尊いものと、セックスという行為によってリンクしてしまうことが受け入れられないのだ。

百目鬼を愛して関係を持つことで、自分の中の矛盾と葛藤、そして演じることへの疲弊を完全に認識してしまった矢代が選んだ道は、男である百目鬼を受け入れるのではなく、平田によって「俺を終わらせる」ことだった。もしも百目鬼と結ばれたのがもっと平穏な時期であったのなら、演技をやめた自分を受け入れることにもっと時間がかけられたのなら、死をもって自分を終わらせるという考えには至らなかったのかもしれない。でも、そこは都合よくままならないのが人生であって、囀るのリアリティと魅力もそういったところにある。




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