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モノカキがちょこっとアドバイスします(9)
殺人的な夏もようやく終わり、朝晩少しずつ気温も下がってきておりますが、皆さん衣替えってもうされましたかね。僕は依然として半袖着て生きておるのですが、子供の頃は10月1日って衣替えじゃなかったっけと思うわけです。なのにもう11月ではないですか。この調子で行くと、マジで12月まで半袖で行けんじゃないかなと思うばかりでございますね。
関東には冬がありませんなあ。
という前置きはさておき、今回もまた掌編作品を送っていただきました。今回の作品はこちら!どばん!
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ということでございまして、今回はなんと歴史ものを頂きました!
「募集」とか「応募要項」とか書いてくださいましたが、そんな大したもんじゃございませんので、皆様お気軽にお寄せくださいませ。
で、本作は、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』に記述のある、源義経の愛妾・静御前に関する一場面を題材としたお話ですね。
源平合戦のスーパースターであり、壇ノ浦で平家を滅ぼした義経ですが、兄・頼朝との不仲が深刻化して鎌倉方に反旗を翻すことになり、結果、朝敵として追討の兵を差し向けられます。まずは九州に逃れようとしますが失敗、妻子らとともに奈良の吉野に潜伏しますが、そこでも攻撃を受けて静御前とはぐれてしまい、静は捕まって頼朝のいる鎌倉に送られます。
もともと白拍子(踊り子兼遊女)であった静は鎌倉の鶴岡八幡宮で頼朝と対面します。頼朝は舞を踊るよう強要しますが(たぶん、下賤な白拍子だ、ということを周囲にわからせ、貶めようとしたのでしょうね)、静は義経を想う歌(今様)を歌いながら舞い、頼朝を激怒させます。頼朝の妻・北条政子が、その心情を理解して助命を嘆願し、処刑はまぬかれるわけですが、頼朝は静が義経の子を妊娠していると知り、後顧の憂いを断つべく、男子であれば生かしておくな、と命じます。
という場面を描いた本作、今回も、甘口・中辛・辛口の三段階でお話していこうかなと思います。質問者さんは、きびしいこと言われたくない!と思ったら、中辛の途中くらいで引き返してもらえるとよいのかなと思います。
ではいってみましょー。
■アドバイス~甘口~
今回、ちょこっとアドバイスも9回目、9作目になりますが、歴史ものは初めてかな?
まず、切り取ったところが渋い、と思いました。
本作は、小説の題材として華のある鶴岡八幡宮・若宮回廊における静御前の舞の場面ではなく、静が軟禁されていた屋敷の中での様子という、歴史書にはない一場面を切り取って持ってきたわけですね。質問者さんはなかなかの歴史好きなんだろうなあと思わせますね。
最近の歴史小説家さんたちも、信長!家康!大河!みたいなのを書く方は少なくて、歴史の中の一場面を切り取って描くことが多く、その切り取る題材とか場面のセンス勝負みたいになりつつあるような感じがするので、その点、チョイスセンスはとてもいいなと思います。
お腹にいる義経の子を慈しむ母としての慈愛と、頼朝にとらわれて死と隣り合わせの環境での鬼気迫る様子と、それを鬼と母、という対比から、鬼子母神になぞらえたというところもよいギミックになっていますし、前半、静が想う義経の愛らしい特徴であったはずの頬の笑い皺が、後半、静の狂気を表すものに変わっていく、という価値の反転みたいな構成もおしゃれですね。
やりたいことというのが明確にあって、きちんとギミックの設定もあるということで、魅せ方というところの意識があるのはすごくいいことだと思います。
■アドバイス~中辛~
場面の切り取りセンスが光る本作でありますが、掌編作品としてテクニカルな部分というのもちょっと細かく指摘していこうかなと思います。掌編作品としては、もう一歩工夫が必要かな、と思う部分もありましたね。
(1)わかる人にしかわからない
冒頭、この作品の背景についてはさらっと補足をさせていただきましたけれども、本来、その補足情報は、ある程度作品から読み取れないといけないことだと思うんですよね。
初見の時、僕は冒頭からずっと何の話かちょっと判断がつかなかったので、途中まで中世ファンタジー系かな?と思って読んでいました。場面を読み取るヒントになる文章がなかったのが原因です。
今回、「静御前」という名前が最後に出てくるのを大オチにしてしまっていているので、序盤に「義経」「頼朝」「静」、あるいは源平合戦、義経追討、みたいなキーワードを出すわけにはいかなかったのかもしれないですが、それだと、終盤まで何の話か分からない人が多いと思うのです。
「白拍子」「御曹司」といったワードにピンとくればいいのですが、序盤から風景描写などがなくて頭の中に前提ができあがらなかったので、そのワードが静御前と結びつかずに、なんか終盤までざーっと目が滑ってしまったのですよね。
なので、まずは舞台は鎌倉時代(あるいは中世)で、これは日本の歴史ものなんだぞ、ということがわかるような描写を、冒頭1、2行以内、早い段階で入れ込む必要があると思います。
日本史なんてひとつもわからん、みたいな人にも設定やバックグラウンドが完璧にわかるように説明した方がいいとは言いませんが、ある程度状況を説明しないと、わかんない人はわかんないままぽかんとして終わってしまう、というお話になっちゃうかなと思います。
〜甘口〜では美点としてあげましたが、切り取る場面が渋い分、ついていける人が多いとは言えないので、まずは中世日本を舞台にしたお話であることを読者に伝えて、「主人公の女性は主人と引き離され、権力の前で死と隣り合わせになっても愛を貫こうとしているのである」みたいな、歴史を知らない人でも主人公に感情移入できるような設定がわかるようになっているとよいんじゃないかなと思います。
質問者さん自身が書き手としてわかっている前提と、初見の読み手がどの文章でどういう判断をして話を理解するのか、というところは違うので、そういう読者目線を理解する感覚はまだ少し足りないのかなと思います。読者の存在を意識するようになると、作品のレベルが一段階上がると思います。
(2)史実との整合性の確認
僕も歴史小説家ではないのでそこまで日本史に詳しくないですが、あれ?と思ったのは、「天上にいる想い人に」という一文でして、なんで引っかかったかと言うと、この場面で義経ってまだ死んでなくね?と思ったからです。
年表などは1192作ろうくらいしか記憶になかった(今は1185年で教わるんですよね?確か)のでWikipedia様にて確認しましたけれども、静が捕らえられ、鎌倉に送られたのは1186年4月のことで、義経の子を産んだのは同年7月。で、義経が敗死する衣川の戦いは1189年とのことですので、やっぱりこの場面ではまだ義経は死んではいないのです。なので、「天上に」というセリフを静に言わせてしまうとおかしなことになってしまうわけですね。
義経が生きていると本作は根幹が崩れてしまいますので、書き始める前には年表やら歴史的事実(または一次資料の記述)やらというのをよくよく確認した方がいいかなと思います。
細かいところですと、鎌倉で静の身柄を預かったのは、「安達清堂」ではなく、「安達清常(清経)」じゃないかな?と思います。字面似てますけどね。
また、最後に使われる「鬼子母神」というモチーフなんですが、日本に鬼子母神という仏さんのお話が伝わってきたのは平安時代ではあるらしいのですが、全国的に認知度が上がってメジャーシーンに躍り出たのは安土桃山時代〜江戸時代であるようです。
鬼子母神は主に日蓮宗の寺院で祀られることをきっかけに広まっていくわけですが、日蓮上人自体が鎌倉時代中期の人ですから、この場面よりずっと後の時代の話なのですね。なので、この場面で清常が「まるで鬼子母神や!」と想起するかな?というところに疑問を持つ読者もいるかもしれません。
なので、できれば、清常が鬼子母神像を見た経験(この時代に実在すると考えられるもの、あるいは現実的に可能性がありそうなシチュエーション)を入れておくと、鬼と母の対比に使いたいだけ、という印象を抑えて、史実っぽさを補完し、ぐっとリアリティが出るかなと思います。
あと、作中で言及される、鬼子母神が末っ子を仏に隠されて半狂乱になるという伝承と、作中の静御前の状況は特にリンクしてはいないですから、このエピソードを出す意味はあまりないのかなあと思いますね。
鬼子母神像って、「子を持つ母像」「末っ子を従えた鬼像」みたいなバリエーションがあって、おそらく作中の静御前につながるのは、鬼の顔をしながら合掌するパターンの像が近いのかなと思います。なんかエピソードの話を出すよりは、そういうヴィジュアル面を強調したほうが、モチーフとしては入れ込みやすいんじゃないかなと思いますね。
まあでも、びたっとハマらないなら無理に入れなくてもいいモチーフではあるので、笑い皺の方をうまく使った方がよいかもしれないですね。
(3)伏線の未回収
作中、静はお腹の子が男子であり、生まれたら殺されてしまうと確信するわけですが(ここは「確信」の根拠がなくてもギリ許容できるかなあー)、静はなにか企みを持っている、という記述があります。おそらく、非道な、あるいは悲壮な決意ではあろうと思うのですが、それが何かというのは作中で言及されておらず、推察できるような記述もなく、読み手には理解できないところになっています。
ですが、この企みこそが、最後、静を美しき鬼神に見せる重要なポイントなので、みなまで書かずとも、読み手が確信に近い推察ができるようなヒントは埋めておかなければならないところだと思います。
『吾妻鏡』では、男子を生んだ静は、「絶対この子を渡さない!」と大泣きし、清常にバチバチに詰められます。ビビった静の母が静から子供を取り上げて清常に渡してしまい、子供は由比ヶ浜に沈めて殺されることになります。
作中では清常は静の雰囲気から「死を覚悟した」という表現を使っているのですが、『吾妻鏡』においては、静は殺されることなく京に送り返されていますので、歴史を知っている人でも、本作作中の静が自分の命を懸けて何をしたかったのかを想像する手段がありません。なので、ここはどういう企みを持っていたのか、というのをきちんと明らかにしておく必要があります。
掌編というのは、長編作品の冒頭とか場面の切り取りではなく、起承転結、ひとつのストーリーをきちんと完結させる必要があります。なので、質問者さんの頭の中で、このあと、実は静はこれこれこういう行動をとるという設定がありまして、みたいなことでは掌編作品として成立しないわけです。
オチに含みを持たせてその後を読者に想像させる、というやり方はありますが、それも、作中の伏線を総合すればある程度理解できる、想像できる、という形にする必要があります。作中で張った伏線を回収しないで終わる、というのは、長編であっても掌編であってもやらないほうがいいということですね。
(4)視点人物変更の無理
本作終盤、「狂ったのか」という一文から、視点人物が静から男(清常)の三人称一元視点に変わります。ここも、初見では視点が変わったということがちょっとわからなかったですね。
読者は、「狂ったのか」の一文だけで、視点が変わったのだということは理解できません。ラスト4行で、どういうこと?となって、読み返して咀嚼してようやく、あ、ここで視点が変わったのか、と理解します。これは、読者に対してはちょっと不親切、ということになります。前述のとおり、まだ読者目線に対する意識が足りないのかなと思いますね。
さらに、「後世に静の御前と〜」というところでカメラ位置がまた変わり、清常の一元視点だったものが、三人称客観視点に変わってしまいます。「後世」を知らない清常の視点で「後世」を語ることはできませんから、突然神の視点に飛んで行っちゃっているわけです。
これもなかなか混乱を招きますね。
もう少し長い話であれば、章や項を変えて視点人物の変更をすることは可能なのですが、この原稿用紙2枚程度のかなり短い作品の中での視点人物を変更するのは読者を惑わせるだけになってしまうかなと思いますので、極力やらない方がいいと思います。
例えばラスト一行で視点人物が変わってオチがきまる、みたいな、叙述トリックとか構成的な妙があるのであれば視点人物変更も許容されますが、本作の視点人物変更の目的は、「静の背後のカメラを正面に回して、狂気の笑い皺を作る静を読者に見せるため」という作者都合の変更であって、ストーリー上の必然性はないわけです。清常視点になった後の話の内容も、根拠なく「連想させ」「閃きがあった」「確信した」と、鬼子母神に結びつけるため、かなり強引になってしまっている印象です。こういうやりかたは、残念ながら「ご都合主義」という批判を受けてしまうのですよね。
例えばですが、月明かりに照らされた屋敷の池を覗き込んで、自分の顔が夜叉なり(余談ですが、「鬼子母神」を出すなら、同種のギミックである「夜叉」は出さない方がよかったと思います)鬼子母神なりに見える、みたいな、静視点のまま静の顔を見せる工夫も可能です。義経にもらった大事な鏡を取り出して自分を見た、みたいなことでもいいでしょう。
ただ、もし、僕がこの話を書くなら、最初から最後まで清常視点にするかなあと思います。静の内面は、セリフや清常の目を通した描写で表現することで、静という人物を客観的に、そして立体的に描き、かつ「この人物は静御前」という大オチを、最後まで伏せることも可能になります。序盤に「安達清常」の名前が出てもこれは吾妻鏡のアレだ、とすぐ気が付く人もそう多くないと思いますし、その方がうまく質問者さんのやりたかったことを表現できたんじゃないかなと思います。
視点人物の変更は読者に負担を強いるので、できるかぎり初読の人でもわかりやすいように工夫して書く必要があります。なので、それが仕掛けになっていないのであれば、しなくても成立するような視点人物変更はできるかぎりしないほうがいい、と思った方がいいと思います。
■アドバイス~辛口~
ここまで、こまこまいろいろな指摘をさせていただきましたが、全体を通して、ここが一番の問題点、というところを上げるとするならば、「筆力」かなと思うのです。筆力というとすごいおおざっぱな言い方になって、結局なんなん?と思うかもしれませんが、要は、この話を書き切るためには、質問者さんの文章力、構成力、語彙力、表現力といった、書き手としての基礎的な能力の底上げが必要になる、ということですね。
例えば、「蔑まわれて」「反芻」といった誤用も全体的に多く、文章は既視感のある言い回しの切り貼りになってしまっているように思います。歴史小説っぽい言い回しのところと、現代小説っぽい言い回しも混在していて、どちらかに統一した方がいいでしょう。たぶん、その言い回しの統一ができていない、というところも、質問者さん自身は気づいていない点かなと思います。
質問者さんは、今までに読んできた小説などから、自分もこういう感じで書きたい、というイメージは持っているのだと思うのですが、いかんせん、インプットした文章表現がまだまだ自分の中に落とし込めていなくて、自由に使いこなせていない、という印象なのですね。
質問者さんがプロ志望とか新人賞を狙いたいと思っているかどうかはわからないのですが、仮に新人賞に応募すると、こういう文章の基礎的な部分がまだ拙いな、と思われると、アイデアとかテーマがよくても一次で落とされてしまうことになるので、すごくもったいないのです。
場面を切り取るセンスもいいですし、笑い皺をギミックにするところとか、やろうとしていることはすごくよくわかるので、やりたいこともいろいろ考えてセンスも磨きつつ、当面は文章の基礎力の底上げというのを重視するといいと思います。
なので、もっともっと本をたくさん読んでボキャブラリを増やしたりですとか、推敲に時間をかけたり、辞書を引いて自分の表現が正しいのかチェックしたり、ということを地道にやっていくと、質問者さんのストロングポイントであるセンスが活かされてくると思いますね。
今プロで書いている作家さんも、過去にはみなさん筆力が追っついていなかった時代が必ずありますし、これは意識すれば伸びるところですから、まだちょっとこういうお話を書き切れるところまで自分の筆力が至っていないのだ、ということは理解しつつ、どんどんいろいろなものを書いて、その文章を磨き上げていけば、さらにいい作品を書けるようになっていくでしょう。
ということで、初めての歴史ものをお寄せいただき、誠にありがとうございました!
僕も、歴史ものとか書いてみたいなあと思いますけど、史実との整合性を取るとか、時代考証とかが死ぬほど大変なので、ちょっと書ける気がしなーい、と腰が引けている次第です。
歴史作家さんすげえなあと毎回思いますね。
質問者さんもチャレンジングなテーマを扱うのは良いことだと思います。
僕もそういえば以前、似たような時代を題材にした掌編を書いておりました。
参考に、と言うとえらそうなのですが、読者に必要な情報の出し加減とか、冒頭の入り方とか、今回指摘したところについてはこういう書き方もあるんだな、などと感じていただけるとよいのかなと思います。
さて、モノカキTIPSでは質問を随時募集しております。小説に関するご質問、その他答えられる範囲のご質問であればなんでも回答させていただきますので、どしどしお寄せくださいませ。
「小説読んでみてください!」系のご質問の場合は、以下ご注意くださいませ。
・長編は読めないので、2000字くらいまでの掌編で。
・文章の校閲や校正はしません。
・具体的な修正案やアイデアの要求はご遠慮ください。
・【重要】あくまで、僕が自著宣伝目的もあって無料で受け付けているだけなので、他の作家さんにアドバイス依頼をかけるのだけは絶対にご遠慮下さい!
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![行成薫(小説家)](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/58719595/profile_a83c7ab446752df7af0505f2f936c776.jpg?width=600&crop=1:1,smart)