『スパイの妻』のウラバナシ(5)
さてはて、10月16日に晴れて劇場公開を迎え、順調なスタートダッシュを決めた映画『スパイの妻』でございますけれども、皆さん、もうご覧になりましたか? たくさんの書店さんが、映画と併せて小説版も押してくださっておりまして、有難い限りでございます。
で、今回のウラバナシはですね、既に小説や映画をご覧いただいた方向けに、『スパイの妻』作中に登場する史実について、豆知識、くらいの感じで、簡単な解説をしてみようかと思います。かなりネタバレを含みますので、映画を観るのはこれから、小説は未読、という方はご注意ください。
※以下ネタバレあり!※
■ドラモンドの逮捕
映画は、ジョン・フィッツジェラルド・ドラモンドなる、ちょっとふくよかなイギリス人が逮捕されるところからスタートします。実は、彼の逮捕は史実でございます。ただの太ましい外人さんではございません。
1940年7月ですが、後に「コックス事件」と呼ばれる事件が起こります。日本国内の在留英国人11名が一斉に逮捕され、スパイの嫌疑をかけられた、という事件です。その中で、当時、ロイター通信の東京支局長であったコックスという人が、東京憲兵隊の取り調べの最中に飛び降り自殺をしてしまいます。作中でも東出さんがえぐい拷問をしておりましたけども、日本人にとっても、外国人にとっても、当時の憲兵隊による拷問は恐怖だったようですね。
そのコックスと同じ時期に逮捕された11名の中に、フレイザー商会というイギリスの会社の大阪・神戸支店長であったJ.F.ドラモンドという男性がいた、という記録が残っております。ファーストネーム、ミドルネームが「ジョン・フィッツジェラルド」だったという記録は見つからなかったので、これは脚本での創作ですかね。
第一次世界大戦の頃は同盟国であった日英ですけれども、1940年当時は米国に味方するイギリスと日本の対立が深まっていて、日本政府はイギリスに揺さぶりをかけるために、在留英国人の逮捕に踏み切ったのではないかと思います。コックス事件を受けて、英国も報復として、自国や植民地に在留する日本人を拘束します。
その後、コックスの自殺を契機に、日本政府とイギリス政府間の交渉が行われて、拘留されていたイギリス人は釈放されます。ちなみに、ドラモンドが釈放されたのは、1940年の8月1日。映画&小説では、ドラモンドの釈放に福原優作が関与した、という設定になっております。
結局、ドラモンドは罰金刑となります。金額は、当時のお金で200円。現在の価値に換算すると、80万円くらいですかね。映画版では、「優作が罰金を払ってくれました、二百円も」というドラモンドのセリフがありますが、実際に罰金を支払ったのは、おそらく釈放されてしばらく後、有罪が確定してからのことでしょう。
■満州でのペスト流行
作中、福原優作は満州国の新京(現在の長春市)へ仕事で向かいます。その新京郊外で、山のように積まれ、焼かれる死体を見た、と妻・聡子に告白するのです。それは、日本軍の細菌兵器によって命を落とした黒死病(ペスト)患者の死体であり、その日本軍の悪魔の所業を知った優作は、己の信念に従い、この事実を国際社会に訴えようと考えます。
きっと皆さん一度は聞いたことがあると思いますが、この新京ペストについては、関東軍防疫給水部本部、通称731部隊という存在が関わってきます。731部隊については、証言や論文を元に実態が語られているのが現状でして、731部隊による人体実験や細菌兵器という非人道的行為については、諸説入り混じっている状態ではあります。ただ、とりあえず明確な事実としては、1940年の6月ころから、新京の北に位置する農安でペストが発生し、10月後半から11月にかけて、そのペストが新京に伝播した、ということです。『スパイの妻』では、これを題材として扱っています。
ペストというと、中世ヨーロッパで猛威を振るった病気、というイメージを持たれるかもしれませんが、実は元々、主に中国の寒冷地に存在する病原菌(ペスト菌)によって発症する病気なのです。なので、中国北部では、稀に自然発生する病気であり、14世紀にヨーロッパで流行したものも、元は中国で発生し、モンゴル軍によって中東へ、さらにシルクロード経由で中東から西欧諸国にまで伝播したものと言われています。最近も、中国北部、内モンゴルあたりで腺ペストが発生しておりましたね。中国で発生し、ヨーロッパに甚大な被害をもたらした病気ということで、昨今の新型肺炎をイメージした方も多いかもしれません。
1940年の新京でのペスト流行は、自然発生説が根強くあったのですが、どうやら731部隊による細菌兵器の実験であったというのは事実ではないか、という説が現在の主流になっております。これは、2011年に、金子順一という元731部隊所属の軍医が残した論文(金子論文)が発見されたことに寄るものですね。なので、小説版でも、いわゆる「マルタ」などの人体実験はあくまで疑惑として扱い、ペストに関しては作中事実としました。
映画の中では、優作が「死体の山が燃えていた」といった光景を語るのですが、史実としては、燃やすのではなく、地中に埋めてしまっていたようですね。ペストによる死者がでると、その「濃厚接触者」である家族は施設に隔離されてしまい、多くの場合はそこでペストを発症して死んでしまったのです。なので、ペストで死んだ人間の家族は、死体を人知れず地中に埋めて隠蔽しようとしていた、というわけですね。
なお、農安ペストの犠牲者は、作中で優作が新京を訪れた頃はおそらく300人弱なので、ヨーロッパでのパンデミックのような、そこら中に死体がゴロゴロ転がっている、というイメージではなさそうです。なので、優作の語る悲惨な光景は、史実をベースにしたフィクションとして捉えて頂くのがよいのかなと思います。
ちなみに、小説版ではペストが発生した人の家を焼く、という描写があるのですが、これは新京でペストが発生した時に行った対処を元ネタにしています。新京でのペスト発生は、田島犬猫病院という動物病院が発生源とされておりまして、発覚後は一旦建物を焼却処分し、その後再建したようです。
■満州への経路
さて、当時の日本から満州へはどうやって渡っていたのでしょう。今であれば、飛行機でひとっ飛びですけれども、当時はなかなかそうもいかなかったようです。一応、満州国では、満州航空、通称「満航」という航空会社が存在していましたが、一般人がそう簡単に乗れるものではなかったみたいですね。
映画では、優作は朝鮮半島を経由して、南満州鉄道(満鉄)を利用して新京に向かったというセリフがあります。小説版ではさらに細かく、優作は神戸から福岡の門司港に渡り、下関に移動して朝鮮半島の釜山に渡り、そこから鉄道に乗り換えています。
神戸~門司港間は、連絡船「高砂丸」が定期航行しておりました。高砂丸は、日本本土と台湾を結ぶ連絡船で、神戸から、門司港を経由して台湾に向かう船でした。
下関からは、本州と朝鮮半島とを結ぶ関釜連絡船というものが出ておりまして、こちらも定期運航。そして、優作が乗り換えた鉄道、満鉄京釜線の始発は、この釜山です。釜山から新京までは急行が運航しており、この急行の名前が「のぞみ」や「ひかり」でした。お?と思った方も多いでしょう。東海道新幹線にも「のぞみ」「ひかり」がありますが、こちらは公募で決まったようですので、実に面白い歴史の偶然というものでしょうかね。
釜山から出発して、新京に辿り着くまでには約27時間という長旅。想像するだけでも尻が痛くなりそうな旅程ですね。
■割烹着のおばちゃん
映画では、優作と聡子が神戸市内で宝飾品、貴金属を買い集める描写がありますが、聡子が何者かに尾行されていることに気づき、優作と別行動をとることになります。
そこから優作の行動を追う一連のシーンは、今回の映画の中でも屈指の長回しシーンで、街を移動していく優作の背景には、出征する兵士の一団を見ることができます。その兵士たちに向かってバンザイを唱える、割烹着姿のおばちゃんたちが。兵士たちの母親かと思うかもしれませんが、そうではなく、これは「国防婦人会」、略して国婦に所属する女性たちです。
割烹着とタスキがトレードマークで、出征する兵士の見送りも活動の一つでした。国婦は、女性たちが自発的に組織していたのですが、後に日本政府が介入し、戦時思想統制などに利用されることになります。聡子と同じく、時代に翻弄された女性たちですね。
■ラストシーンの空襲
映画版のクライマックス、聡子が入院する病院が空襲を受けるシーンですが、これも史実です。神戸を襲った空襲としては、1945年3月17日と、6月5日の二回が特に大規模で、被害も大きかったようです。それまでは、軍事施設や工場を狙っていた空襲ですが、1945年3月からは、大量の焼夷弾を使って民間人を狙う無差別絨毯爆撃が行われました。東京が焼け野原になった東京大空襲も、1945年3月10日を皮切りに始まっています。
二回の大空襲のうち、3月17日は深夜に爆撃が開始されました(6月5日は早朝)。つまり、『スパイの妻』で描かれているのは、この1945年3月17日の空襲です。一応、これは制作側にも確認を取ったので、オフィシャルの見解ですね。
ちなみに、神戸の空襲は結構創作の題材として使われていて、6月5日の空襲は、映画『火垂るの墓』、手塚治虫の漫画『アドルフに告ぐ』、朝ドラ『べっぴんさん』でも描かれておりますね。
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ということで、今回は、知っておくともう一度観たくなる&読みたくなる、『スパイの妻』豆知識をお送りいたしました。このほかにもですね、映画も小説も、それぞれにいろいろな史実を含む小ネタ、オマージュネタが盛り込まれておりますので、是非ね、二度三度と楽しんで頂ければと思います。