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言葉の生命

おはようございます。きょうも書いていきます。

自分の言葉、や、生きている言葉、といった表現を見る。それらと、他人の言葉や、死んでいる言葉の違いは、なんだろうかと考えた。「連なり」や「繋がり」ではないかと思う。言葉はひとつの単体としては、力を持たない。前後の言葉や、文脈、また歴史によって、力を持っているのである。

自分の言葉で話せる人は、その「連なり」や「繋がり」が、滑らかである。前後の文脈や単語の選び方が適切に感じられる。他人の言葉をつかう人は、突飛的だ。急にこしらえたものだから、形を留めない。宙に浮かんでいて、忽ち消えてしまう。縛りつける縄も鎖も持っていない。

文章でもさることながら、面接などの口語でも多く見られる。生きた言葉を使う人は、普段からその「連なり」を考えている。時代によっても変化する微細な表現を捕まえている。

生きている人間と、死んでいる人間の違いにも、当てはまるかもしれない。「連なり」や「繋がり」が、血流をもたらすのだ。それ単体でいるだけではどうということはない。何かの影響を受けたり、何かに引き継いでいくのに意義を見出している。

相手のために、や、伝わりやすいか、とはまた違う。尊重があるか、などのほうが相応しい感じがする。誰かの話した言葉や、その誰か自身を引き継いでいる。文脈や単語に影響が出る。「連なり」や「繋がり」が誕生する。

プログラミングのオープンソースに似ているかもしれない。言葉のオープンソースをやっている。言葉は目に見えづらいから、参加をしている人の数は少ない。これからさらに少なくなる。コピペをするひとはさらに多くなる。

無機質なものにほど生命が宿る。いのちは引き算のようなもので、手にして掲げられるものではない。痕跡である。崩さずに、次の世代へ継ぐ。それが自分の言葉、生きている言葉を使うということだ。

きょうも読んでくださって、ありがとうございました。よい一日をおすごしください。

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